アリストテレスにおける「変化の原理」と生成の可能性 Broadie (1982) Nature, Change and Agency #1

  • Sarah Waterlow (1982) Nature, Change and Agency in Aristotle's Physics: A Philosophical Study. Clarendon Press.
    • Ch.1: Nature as Inner Principle of Change. 1-47. [うち 1-22, 46-47.]

アリストテレスの変化論を扱った S. Waterlow (Broadie) の研究書。読み始めたばかりだが,テクストと不即不離の距離を保ちつつ問題を論じる技倆が抜きん出ていると感じる。

以下では ¶1-27 および補遺を要約する。ここまでが Phys. I 7-8 に最も密接に関連する範囲と思われる。必ずしも叙述自体の区切りではない。


  1. 本書の目的は,「変化と静止の内的原理」としての自然実体という根本概念から,(一般に悪名高い) アリストテレスの自然学の体系がいかに展開したかを示すことである。
  2. 原因には自然のほかに技術 (artifice, τέχνη) と「自発的なもの (the spontaneous)」(ないし偶然 (coincidence)) があるが*1,後者は二次的であり,「自然」概念を導入する Phys. II.1 冒頭では言及されない。II.1 では原因の一次的な種類として自然/技術の二分法が採用されている。
  3. 自然と技術が相互排他的なクラスをなすことはアリストテレスにとって自明事であり,したがって例えばデーミウールゴスのような超自然的行為者は (仮定により) 自然学に入る余地がなかった。
  4. ゆえに人工物 (artefacts) は自然的対象と,その (a) 原因,(b) および他のものの原因となる能力の両面において,根本的に異なる: (a) 人工物は非人工物のもつ技術によって作られるが,自然的対象は他の自然的対象から作られる。(b) 人工物は技術を持つ者ではなく,したがって他の人工物が産出される必要はない。だが自然物からはさらなる自然物が産出されねばならない。また自然物の産出のみならず,変化についても同様である。
  5. それゆえ自然物が全体として (変化の) 原理を含むことは明らかである。だが,アリストテレスはより強い意味で原理は「内的」だと主張する。すなわち個物に内在する ('ὁρμὴ ἔμφυτος' (192b18-19))。
  6. ὁρμὴ ἔμφυτος をどう理解すべきかは問題である。というのも,あらゆる変化は外的状況にある程度依存するからだ。
  7. 以下の限界をなす観念を考えられる。(a) 外的状況に全く左右されない変化。(b) 外的状況に完全に依存する変化。前者の場合,いかなる外的状況においても起こるか,外的状況を完全に制御するものによって起こるか,のいずれかである。
  8. 他方で,変化が完全に外的状況によってのみ起こる対象もある:『ティマイオス』(およびニュートン力学) の「場所」。だが,この場合,そもそも変化はいかにして起こるのか,説明可能か,が問題になる。というのも,当の対象がある性質を有することによって,それが別の性質を有するか否かが規定され得ないから。
  9. アリストテレスPhys. A5 で上述の意見に反対する (199a31-4)。むろん能動者・受動者は付帯的な仕方で説明されうるが,それらがありうるには,因果関係を根拠づける特徴によって説明可能でなければならない。また直後に述べられるように (a35-b3),(例えば) 白になる受動者は,黒から白までの範囲を容れうるのでなければならない。
  10. 幾人かの先行者は,変化をあまりにパラドクス的と見なし,結果自然研究から遠ざかった。アリストテレスはこれを先行者の素朴さの結果と考えたが,パラドクス自体は解決すべき問題だとも考えた。彼自身の解決はやはり,自然的対象についての同じ見方に依存している。
  11. Phys. A8, 191a24-31.「何かが基礎に置かれなければならない」はアリストテレス自身の解決を示す言葉である*2。とはいえ,この概念的要請は先行者たち自身がおぼろげに気づいていたものである。—— 一方で,X が生成するとき,X はそれ以前には存在しえない。他方で,X がそれ以前のものにともかくも淵源する必要がある。だが何にか?X 以外のものなら,それは「全く何にも淵源しない」と言うのと同程度にしか都合が良くない。X 以外のものが自存するのに X はなんら必要ではないから。それゆえ残るは「自分自身に」だが,すると生成が否定される。
  12. 何であれ変化の理論を立てる際にこのパラドクスは解決されねばならない,とアリストテレスは考えた。すると,エレア派の結論を拒否する先行者たちが,〈反対者〉の概念をめぐって理論を立てたのは偶然ではない。というのも,一見この概念が問題を解決するように見えるから。X の生成を X の反対者 A からの生成とすることには,少なくとも三つの利点がある。(1) X が生成する前は X ではなくその反対者があった,と言えるようになる。(2) X の生成以前にあるものを「非 X」ではなく積極的に「A」だと言えるようになる。(3)「A」の積極的説明は反対者 X に言及する。したがって A であるためには X を要する。—— 我々はこれを尤もらしいと思うにはあまりに論理的関係と因果関係の区別に敏感であるかもしれない。が,少なくともこれが初期の思想家の考えたことだった。
  13. だが,反対者のもつこの関係は,却ってジレンマのより強力な定式化を可能にする。反対者は互いを排除するからだ。〈反対者〉によって生成を分析する人々がこれに気づかなかった理由は,部分的には ἐκ の多義性にある: X が「そこから」出てくるものは,(a) X のうちにあり続けるか (構成的),(b) 取って代わられる (非構成的)。Metaph. A4, 985a10ff. は先行者たちが (a) 質料因と (b) 始動因の区別を充分把握していなかったと述べる。
  14. 両義性を明晰に把握すると,パラドクスは問題化する。アリストテレスは自分の生成分析が唯一の解決だと述べる。より正確には生成の言語の分析である*3。「思考の構造が実在の構造を反映する」と (いかにして) 知りうるのか,とアリストテレスが問うたかは疑わしい。いずれにせよこの問いは彼の科学哲学 (philosophy of science) にない; 科学哲学の役割は我々が漠然と有する概念データを明晰にすることである (Phys. A1)。
  15. アリストテレスの分析は以下のように始まる (Phys. A7):「〜が〜になる」という形式の文は三種類ある。両方とも単純である場合: (i) 人が教養あるものになる。(ii) 教養のないものが教養あるものになる。両方が複合的である場合: (iii) 教養のない人が教養ある人になる。——これらが同一の事実の記述である点が重要である。文 (ii) は生成が交替 (replacement) を含むことを示す。文 (iii) は生成が共通要素を含むことを示す。文 (i) はどちらのことも示さないが,文 (i) が記述する事実は (ii) (iii) も正しく記述している。結論: (a) 生成は (ii) (iii) が示す (が (i) に見られるように必ずしも明示されない) 二つのアスペクトを含む。(b) 二つのアスペクトは両立する。
  16. 190a13-21.「教養のない」は「留まらない」(i.e. どの形式においても右側に置けない) が,「人」は「留まる」。
  17. この分析がパラドクス解決の基礎になるが,それ自体が解決なのではない。それがなぜかをまず考えることが解釈に資する。この分析は,同一の事実とその構成要素が異なる仕方で記述されうることを示している。だが,(i)-(iii) が同一の事実を記述するということを受け入れても,この事実は不条理に陥らずには完全に記述されない,と論じうる。例えば (iii) からは (ii),および (iv) 人間が人間になる,が帰結する。だが (ii) (iv) は各々もとのジレンマの一方を表している。——要するにアリストテレスが示したのは,パラドクスが秘教的術語法を用いる人々にのみ明らかになるような凝ったものではなく,日常言語の範疇で理解できるということである。その結果パラドクスはむしろ,人間のもつ描像の中心にある観念さえ疑わしめるという点で,意気阻喪させるものである。
  18. ゆえにアリストテレスによる変化と生成の現実の擁護は,知る者としての我々の地位も守ることになる。だが,どうやってか? 彼の答えはこうである: 上記の文はすべて真で有意味だが,すべてが同様に適切であるわけではない。すべてが同様に適切だと考えるところからパラドクスが生じるのである。
  19. 左側について適切なのは両側に現れる (iii) (iv) のそれ,右側について適切なのは交替を示す (ii) (iii) のそれである。したがって適切な文は (i) である。パラドクスが生じるのは,(a) すべての文が同様に適切な記述を与えるとし,(b)「生成主体が残る」「生成先が以前あったものを取り替える」という二つの原理を認めるときである。
  20. 「適切な記述のもとでは (κυρίως)〈生成するもの〉や〈あるもの〉は〈あらぬもの〉から生成しない」(A8, 191a34-b27) ということで,問題は食い止められる。ここで「から (ἐκ)」は構成的な意味で使われている:「教養ある人」は「人」から作られる。
  21. さて,「パラドクスを解消しうる」以外に,記述 (i) を選ぶ理由はあるか? ないとすれば論点先取ではないか? ——だが,φαινόμενα が了解可能になれば,それ以上の理由を挙げる必要はない。パズルは自然を探究する上での障害に過ぎない。
  22. とはいえ,まだ論理的・概念的整合性が確保されたに過ぎない。生成そのものの可能性は論じ残されている。
  23. 以上の分析でいう「何かが留まる」ということは,「以前はあるのでなかったものが生成すること」についてのパラドクスにどう対処するのか?
  24. つまり,「生成において「人間」が留まる」と整合的に言えると示されたとしても,何かが「教養のないものから教養あるものになる」ことができるのはなぜか,ということはまだ説明されていない。——アリストテレスの答えは,A7, 190a15-17, b24-5 で示している,というものだろう。すなわち: 人間と教養あるものは数的に一つであり,「教養あるもの」が突然現れたのではない。この議論はなお洗練の余地を残すが (例えば sense/reference の区別によって),ともあれ問題を解決しているように見える。しかしながら,まだこのように解決すべきことの根本的な理由を与えてはいない。
  25. つまり,なぜ「教養あるもの」を独立の存在者と見なしてはならないのか?—— 答え: そうすると再び無からの生成を許すことになるから*4
  26. 生成するのは質・量・関係等々であって,もの・実体ではない。
  27. 〔まとめ。〕教養の存在・不在の基礎に置かれる主体は,個体実体により例化されるような (実体構成的な) 特徴により特徴付け可能である必要がある。他方,性質はすでに性質の例化により構成された個体によって例化されるのでなければならない。さもないと「教養あるものになる」は教養を本質とする新たな実体の生成を含意してしまう。

第1章の補遺

本章の解釈では,I 7-8 の議論において,あらゆる生成は留まる subject を伴い,これは実体である。だが,これが実体的変化にも当てはまるかは議論がありうる。当てはまらない場合,アリストテレスの図式は (a) 自然実体の生成と ,もしかすると (b) 人工物の生産をカヴァーしていないことになる。「もしかすると」というのは,厳密には人工物は実体でないとされているように思われるから。

実体的変化が実体的な留まる subject を伴うという主張は二つの困難に行き当たる。

  1. 実体的変化の場合に,アリストテレスの言う subject は留まらないものを指すように思われる。e.g. σπέρμα.
  2. Charlton が述べるように,留まる subject はしばしばスコラ的「第一質料」だと考えられている。そして第一質料は実体ではない。

これらに対して,以下のように応答する。

  1. (2) については Charlton に同意する。だが,そもそも Phys. I 7 が考慮するのは植物や動物の生成であって,異なる種類の実体からの変容による生成 (e.g. 地水火風の相互変換) ではない。
  2. Phys. II は生物が (i) 他ならぬ実体において変化しつつ (ii) 同定・記述可能な実体を subject に持つ過程を経るような自然の理論を詳述する。
  3. だが,発育中の (発育し終えていない) 生物は subject (underlying thing) たり得ないのではないか (Charlton)? 否,同一の実体構成的特徴を有するのであれば,問題がない。生物の場合,生命の原理という意味で同一の自然本性を保ち続ける。
  4. 普通の生物実体についての単語は成体を想起させがちである (e.g. 人間)。だから「種 / 胚 (σπέρμα)」という例が登場したのである。発育済みのものと発育中のものを中立的に指す手近な語は存在しなかった。この手の日常語の枯渇はアリストテレスにとって日常茶飯事である。

*1:2n3: 三分法につき A. Mansion, IPA, 94-7.

*2:8n6: この箇所の 'reading his own doctrine into earlier systems' につき Cherniss, ACPP, 53ff.; Solmsen, ASPW, 81f. 一般論としては Cherniss, op. cit., 348, 254-5.

*3:12n10: Wieland (1960-1) Kant-Studien LII, 206ff.; Jones (1974) Phil. Rev. LXXXIII, 474ff.; 総論として Owen, "Tithenai".

*4:↔︎ Morison の A7 解釈。