『自然学』A8 は実在解釈で読める Clarke (2015) "Aristotle and the Ancient Puzzle about Coming to Be"

  • Timothy Clarke (2015) "Aristotle and the Ancient Puzzle about Coming to Be" Oxford Studies in Ancient Philosophy 49:129-150.

本人も書いているようにかなり素直な (straightforward) 解釈をしている。ただ素直だから正しいというものでもないとは思う。以下では大筋をまとめただけで注を拾う作業は大きく積み残している (これは他の論文もそう)。実在解釈派の論文なので,文脈が許す限りで being/non-being は単に「存在 (者)/非存在 (者)」と訳してしまうことにする。(non-)existent とも区別しない。


1. 導入

本論考は二つのことを行う。第一に、A8 のパズルを A8 冒頭で述べられている通りに説明する。第二に、アリストテレスの原理論がパズルをどう解決するかを説明する。

まず第2節で二つの予備的な問いを論じる: (a)「いにしえの人々」とは誰か、(b) パズルは "coming into existence" と "coming to be such-and-such" のどちらに関わるか。第3節では、パズルの二つの選択肢をどう理解するかという問いを扱う。本稿の解釈の利点をはここで説明する。第4節で、アリストテレスによるパズルの解決を検討する。

2. 二つの予備的な問い

第一に「いにしえの人々」とは誰か。本稿も、他のほとんどの解釈者と同様に、エレア派就中パルメニデスとメリッソスだと解する。

第二に γίγνεσθαι を「F になる」と解するか、それとも「存在するようになる」と解するか。本稿は後者だと解する。パズルの直前の φθείρεσθαι との対比や、その後の γίγνεσθαι の用法は、後者の解釈を裏付ける。また「変化全般」(191b33) の拒否もこれと整合する。事実パルメニデス (B8.26-8) やメリッソス (B7.2-3, 8.6) もこれを論拠に変化を拒否した。

3. パズル

論証は次の通り。 (a) "διὰ τὸ ἀναγκαῖον μὲν εἶναι γίγνεσθαι τὸ γιγνόμενον ἢ ἐξ ὄντος ἢ ἐκ μὴ ὄντος" (a28-9). (b) しかるに,どちらの選択肢も不可能 (a29-31)。(c) ゆえに,何ものも生成しえない。

語 εἶναι にも (γίγνεσθαι と同様に) 完全用法 (「実在」読み) と不完全用法 (「不完全」読み) がある。だが,どちらも (c) の箇所で困難をはらむ:

... ἐκ δὲ τούτων ἀμφοτέρων ἀδύνατον εἶναι· (1) οὔτε γὰρ τὸ ὂν γίγνεσθαι (εἶναι γὰρ ἤδη) (2) ἔκ τε μὴ ὄντος οὐδὲν ἂν γενέσθαι· ὑποκεῖσθαι γάρ τι δεῖν.

この点 Kelsey の述べる通り。そして Kelsey は,「実体から生成する」と「実体ならざるものから生成する」のあいだの区別だと解釈する。〔Kelsey 論考第1-2節。〕だが Kelsey 解釈の問題として,第一に「実体」についてのパズルが「エレア派的」と言えるか疑わしいこと,第二にアリストテレス自身が「実体である」解釈の手がかりを直接与えてはいないこと,がある。

したがって,実在解釈の見込みを再考したほうがよい。実在解釈における二つの選択肢は,生成するものの「前身 (precursor)」についてのものだと考えると,確かに εἶναι γὰρ ἤδη が意味をなさない。だが,「生成したものそれ自体 (the generated thing itself)」ないし生成するものの「生成以前の状態 (the pre-generation state)」を指すと考えることもできる。この場合,εἶναι γὰρ ἤδη / ὑποκεῖσθαι γάρ τι δεῖν はともに意味をなす。

4. パズルの解消

4.1. パズルを論じる第一の方式

ἐκεῖνοι μὲν οὖν ταύτην ἔλαβον τὴν δόξαν διὰ τὰ εἰρημένα· ἡμεῖς δὲ λέγομεν ὅτι τὸ ἐξ ὄντος ἢ μὴ ὄντος γίγνεσθαι, ἢ τὸ μὴ ὂν ἢ τὸ ὂν ποιεῖν τι ἢ πάσχειν ἢ ὁτιοῦν τόδε γίγνεσθαι, ἕνα μὲν τρόπον οὐθὲν διαφέρει ἢ τὸ τὸν ἰατρὸν ποιεῖν τι ἢ πάσχειν ἢ ἐξ ἰατροῦ εἶναί τι ἢ γίγνεσθαι, ὥστ' ἐπειδὴ τοῦτο διχῶς λέγεται, δῆλον ὅτι καὶ τὸ ἐξ ὄντος καὶ τὸ ὂν ἢ ποιεῖν ἢ πάσχειν. οἰκοδομεῖ μὲν οὖν ὁ ἰατρὸς οὐχ ᾗ ἰατρὸς ἀλλ' ᾗ οἰκοδόμος, καὶ λευκὸς γίγνεται οὐχ ᾗ ἰατρὸς ἀλλ' ᾗ μέλας· ἰατρεύει δὲ καὶ ἀνίατρος γίγνεται ᾗ ἰατρός. ἐπεὶ δὲ μάλιστα λέγομεν κυρίως τὸν ἰατρὸν ποιεῖν τι ἢ πάσχειν ἢ γίγνεσθαι ἐξ ἰατροῦ, ἐὰν ᾗ ἰατρὸς ταῦτα πάσχῃ ἢ ποιῇ ἢ γίγνηται, δῆλον ὅτι καὶ τὸ ἐκ μὴ ὄντος γίγνεσθαι τοῦτο σημαίνει, τὸ ᾗ μὴ ὄν. (191a3-b10)

アリストテレスによる accidental / non-accidental の区別は,次のように述べることができる。

  • F であるものが非付帯的に φ する ⇔ (i) F であるものが φ し,かつ (ii) F であるものが φ しえたのは F であることによってである (by virtue of)。
  • F であるものが付帯的に φ する ⇔ (i) F であるものが φ するが,(ii) F であるものが φ しえたのは F であることによってではない。
  • X が非付帯的に G から F になる ⇔ (i) X は G から F になり,かつ (ii) X が F になりえたのは X が G であったことによってである。
    • X が付帯的に G から F になる ⇔ (i) X は G から F になるが,(ii) X が F になりえたのは X が G であったことによってではない。

4.1.1. 非存在者からの生成

ὅπερ ἐκεῖνοι μὲν οὐ διελόντες ἀπέστησαν, καὶ διὰ ταύτην τὴν ἄγνοιαν τοσοῦτον προσηγνόησαν, ὥστε μηθὲν οἴεσθαι γίγνεσθαι μηδ' εἶναι τῶν ἄλλων, ἀλλ' ἀνελεῖν πᾶσαν τὴν γένεσιν· ἡμεῖς δὲ καὶ αὐτοί φαμεν γίγνεσθαι μὲν μηθὲν ἁπλῶς ἐκ μὴ ὄντος, πὼς μέντοι γίγνεσθαι ἐκ μὴ ὄντος, οἷον κατὰ συμβεβηκός (ἐκ γὰρ τῆς στερήσεως, ὅ ἐστι καθ' αὑτὸ μὴ ὄν, οὐκ ἐνυπάρχοντος γίγνεταί τι· θαυμάζεται δὲ τοῦτο καὶ ἀδύνατον οὕτω δοκεῖ γίγνεσθαί τι, ἐκ μὴ ὄντος)·

  • X が非存在者から付帯的に生成する ⇔ (i) X は非存在者から生成するが,(ii) X が生成しえたのは,X が非存在者であったことによってではない。

(ii) から考える。なぜ「非存在者であったことによってではない」のか? 可能な答え: 多くの非存在者は必然的な非存在者だから*1。像が生成するのは,元々は非存在者だったからではなく,像が元々「形を持たない大理石のブロック」だったからである。

次に (i). 原理論によれば,生成するものはとりわけ関連する欠如から生成する。欠如は「それ自体ありはしないものである」とは,ある種の非存在者であることを意味する。このとき例えば「大理石」が ὑποκεῖσθαι するので,エレア派の問題は生じない。

4.1.2. 存在者からの生成

ὡσαύτως δὲ οὐδ' ἐξ ὄντος οὐδὲ τὸ ὂν γίγνεσθαι, πλὴν κατὰ συμβεβηκός· οὕτω δὲ καὶ τοῦτο γίγνεσθαι, τὸν αὐτὸν τρόπον οἷον εἰ ἐκ ζῴου ζῷον γίγνοιτο καὶ ἐκ τινὸς ζῴου τι ζῷον· οἷον εἰ κύων ἐξ ἵππου γίγνοιτο. γίγνοιτο μὲν γὰρ ἂν οὐ μόνον ἐκ τινὸς ζῴου ὁ κύων, ἀλλὰ καὶ ἐκ ζῴου, ἀλλ' οὐχ ᾗ ζῷον· ὑπάρχει γὰρ ἤδη τοῦτο· εἰ δέ τι μέλλει γίγνεσθαι ζῷον μὴ κατὰ συμβεβηκός, οὐκ ἐκ ζῴου ἔσται, καὶ εἴ τι ὄν, οὐκ ἐξ ὄντος· οὐδ' ἐκ μὴ ὄντος· τὸ γὰρ ἐκ μὴ ὄντος εἴρηται ἡμῖν τί σημαίνει, ὅτι ᾗ μὴ ὄν. (191b17-26)

ここでは二つの論点が挙げられている。

  1. 物は存在者から生成しない,付帯的にでなければ。
  2. あるものは生成しない,付帯的にでなければ。

(a) は先ほどと同様に分析できる:

  • X が存在者から付帯的に生成する ⇔ (i) X は存在者から生成するが,(ii) X が生成しえたのは,X が存在者であったことによってではない。

原理論によれば (i) はあらゆる生成について言える。また (ii) も正しい: 像が生成しえたのは,大理石が存在者だったからではなく,可塑的だったからだ。

かくしてパズルも回避できる。大理石のブロックは,存在はしていたが,その生成過程の終端状態にはなかった*2。(b) は二通りに解釈できる: (b1) あるものは生成過程に参入しない,付帯的にでなければ。(このとき (a) と (b) は実質同じことを述べている。) (b2) あるものは生成から結果しない,付帯的にでなければ。アリストテレスの直後の議論は後者の読みを支持する。〈馬 → 犬〉の変化において「動物であること」が変化の終端に来ないように,「あること」は生成の終端には来ない。終端に来るのは,関連する形相を持つことである。

4.1.3 これは排中律に違反していない

ἔτι δὲ καὶ τὸ εἶναι ἅπαν ἢ μὴ εἶναι οὐκ ἀναιροῦμεν. (191b26-7)

問題のない仕方で解釈できるから。

4.2 パズルを論じる第二の方式

〔省略〕

4.3 エレア派の混乱の源泉

ὥσθ' (ὅπερ ἐλέγομεν) αἱ ἀπορίαι λύονται δι' ἃς ἀναγκαζόμενοι ἀναιροῦσι τῶν εἰρημένων ἔνια· διὰ γὰρ τοῦτο τοσοῦτον καὶ οἱ πρότερον ἐξετράπησαν τῆς ὁδοῦ τῆς ἐπὶ τὴν γένεσιν καὶ φθορὰν καὶ ὅλως μεταβολήν· αὕτη γὰρ ἂν ὀφθεῖσα ἡ φύσις ἅπασαν ἔλυσεν αὐτῶν τὴν ἄγνοιαν. (191b30-4)

'ἡ φύσις' は「基礎に置かれる自然」を指す。これの把握が鍵になると言われている。なるほど (i) 生成する前はものは存在しないし,(ii) 非存在者は変化の基体たりえない。しかし「生成の基体 = 生成するもの」という前提を取らなければ,問題は生じない。

5. 結論

〔省略〕

*1:よくわからない。

*2:これもよくわからない。