『自然学』A8 は類に関する原則を扱う Kelsey, "Aristotle Physics I 8"

  • Sean Kelsey (2006) "Aristotle Physics I 8" Phronesis 51(4): 330-361.

第I節では,先行研究を調査し,あわせてアリストテレスが「エレア派の問題は哲学的困難を含んでいる」と考えた理由を説明することの困難さを示す。第II節では新たな読みを提示する。読みの新規性は,とりわけ,「「何ものも既にあるものにはならない」という原則は (個体ではなく) 類についての原則である」とする点にある。第III節では,Phys. A8 におけるアリストテレスの諸解決について論じる。各々について,解決策が何であるかを解釈したのち,[i] それらは既に理解された限りの元々の問題にどのように言及したものなのか,[ii] なぜそれが問題解決の必須の構成要素なのか,[iii] それは A7 にどのように依拠しているのか,を説明する。第IV節では特定の一節についての困難を解決する。

I. 困難

ὃτι δὲ μοναχῶς οὕτω λύεται καὶ ἡ τῶν ἀρχαίων ἀπορία, λέγωμεν μετὰ ταῦτα. ζητοῦντες γὰρ οἱ κατὰ φιλοσοφίαν πρῶτοι τὴν ἀλήθειαν καὶ τὴν φύσιν τῶν ὄντων ἐξετράπησαν οἷον ὁδόν τινα ἄλλην ἀπωσθέντες ὑπὸ ἀπειρίας, καί φασιν οὔτε γίγνεσθαι τῶν ὄντων οὐδὲν οὔτε φθείρεσθαι διὰ τὸ ἀναγκαῖον μὲν εἶναι γίγνεσθαι τὸ γιγνόμενον ἢ ἐξ ὄντος ἢ ἐκ μὴ ὄντος, ἐκ δὲ τούτων ἀμφοτέρων ἀδύνατον εἶναι· οὔτε γὰρ τὸ ὂν γίγνεσθαι (εἶναι γὰρ ἤδη) ἔκ τε μὴ ὄντος οὐδὲν ἂν γενέσθαι· ὑποκεῖσθαι γάρ τι δεῖν. καὶ οὕτω δὴ τὸ ἐφεξῆς συμβαῖνον αὔξοντες οὐδ' εἶναι πολλά φασιν ἀλλὰ μόνον αὐτὸ τὸ ὄν. (191a23-33. 元論文は Charlton を元に英訳している。)

A8 冒頭における上記の問題提示は,いくつかの疑問をもたらす。例えば,問題は実体の生成のみに関わるのか,付帯的変化をも含むのか。(Kelsey は前者だと考える。) また 'ἐκ' の意味も問題になる。(Kelsey は「質料からものが生成する」(↔ 欠如から/両方から) の意味に解する。) だがとりわけ問題なのは,'εἶναι' が完結した動詞であるか (complete reading, 以下 CR),補語を取るか (incomplete reading, 以下IR),という点である。実のところ,いずれの読みも問題を含む。

  • CR の場合,全てのもの (e.g. ソクラテス) は τὸ ὄν ないしは τὸ μὴ ὄν のどちらか一方から生じる。だがこの時,ἐξ ὄντος の側には問題が生じないように思える: なぜソクラテスが εἶναι ἤδη だと言うべきなのか,不明である。
  • 他方 IR の場合,例えばソクラテスソクラテスであるものか,ソクラテスではあらぬものかのいずれかから生じる,ということになる。すると,ἐκ μὴ ὄντος の側に問題が生じないように思える。ソクラテスでないものからソクラテスが生じる,というだけでは,基礎に置かれるものがないということは帰結しない。

なお,シンプリキオス (236.20-22) 以来唱えられてきた両者の折衷案は,冒頭の二分法を無意味にしてしまう。したがって,なぜアリストテレスがこの問題を困難だと考えたのか,よく分からない。問題が動機づけられるには,次の3つの要件が満たされる必要がある。

  1. 二分法が一見網羅的になること,
  2. ἐξ ὄντος 側が εἶναι γὰρ ἤδη という反論に一見開かれていること,
  3. ἐκ μὴ ὄντος 側が ὑποκεῖσθαι γάρ τι δεῖν という反論に一見開かれていること。

II. 新しい読み

ここまでのところ,生成するものが個物であると暗に想定されてきた。だが,生成の終点 (terminus ad quem) はであると語ることも,同じくらい自然である (e.g.「何を作っているのか? ー 家具を作っている」)。先ほどの問題をこの線で理解するなら,εἶναι γὰρ ἤδη は「何ものも,すでにそれであるところの種になることはできない」という原則を意味することになる。

例えばソクラテスが生成するとき,彼は人間,動物,実体になる。すると彼は,実体から生成するか,実体ならざるものから生成するか,のいずれかである。しかるに,一方は上記の原則から否定され,他方は実体以外が「基礎に置かれ」得ないことから否定される。この原則は,事実,アリストテレスが採るものである。"εἰ δέ τι μέλλει γίγνεσθαι ζῷον μὴ κατὰ συμβεβηκός, οὐκ ἐκ ζῴου ἔσται, καὶ εἴ τι ὄν, οὐκ ἐξ ὄντος" (191b23-25).

先述の CR/IR 問題は,「「ある/あらぬ」が「実体である/あらぬ」を意味する」と解釈することで解決される。これは CR の一ヴァージョンとも,IR のそれとも見なしうる。以上の解釈は,アリストテレスが当の問題を深刻に考えた理由を説明する。

III. アリストテレスの (諸) 解決

アリストテレスは二つの解決方式を提示する。与えられている問題は,「実体の生成の起点 (〈実体素材〉(substance-material)) が満たすべき二つの条件ーー(a)〈実体素材〉は「基礎に置かれる」必要がある,(b) 〈実体素材〉は「それがなるところのもので既にある」のであってはならないーーが共に満たされ得ない」という問題だと見なせる。アリストテレスの第一の解決は (a) (b) の両方ともを拒否するものであるのに対し,第二の解決は両者を調停する。

III.1. 第一の解決,前半部:「あらぬもの」からの生成

第一の解決の前半部は「あらぬもの」の両義性を衝く。すなわち,〈端的に (ἁπλῶς) / あらぬ限りの (ᾗ μὴ ὄν)〉あらぬものからは何も生じないが,付帯的に (κατὰ συμβεβηκός) あらぬものから生成することは可能である。先ほどの解釈に照らせば,「〈実体素材〉は端的に「実体でないもの」ではない (本性上「実体でないもの」であるわけではない) が,付帯的に「(当の生成する種類の) 実体でないもの」であることを妨げない」ということになる。

この解決法について3点述べておく。

  1. ここでは〈実体素材〉が「基礎に置かれるべきである」ことが否定されている。アリストテレスは類について (= 端的な意味で) はこれを認めるが,〈実体素材〉が偶々それであるものについての条件であることは否定する。つまり,ある意味では実体が「実体でないもの」から生じうる。
  2. この解決法はこの問題のあらゆる解決の必須の要素である。アリストテレスによれば実体の生成は欠如・不在からでなければならず (A7, 191a4-7),したがって当の種類の実体から当の種類の実体になることは (付帯的にさえ) できない。
  3. この解決法は A7 で提唱された原則に依拠している。ーー A7 では,原理が反対者であるか否かという点が調停された。すなわち,一方で〈基礎に置かれるもの〉と〈形相〉というそれ自体としては反対でないものが原理とされ,他方で〈基礎に置かれるもの〉が偶々〈形相〉の反対者であるとされた。ーー これはまさに A8 のこの箇所の手筋である (「ある」が形相にあたる)。

III.2. 第一の解決,後半部:「あるもの」からの生成

この箇所は難しく,様々な解釈を呼んできた。ここでは解釈のあらすじを示すに留め,詳細は第IV節に回す。

アリストテレスは後半部を前半部と並行的に捉える。すなわち,実体は偶々実体から生成するにせよ,実体である限りではなく,〈実体素材〉である限りのものから生成する。先ほどと同様に3点指摘する。

  1. アリストテレスは,「何ものも既にあるものからは生成しない」という原則を,端的な意味では認めつつ,〈実体素材〉が偶々実体であることまで禁じるものではないとする。
  2. この解決法もやはり必須である。アリストテレスは,一方で〈実体素材〉が一定の量・質等々をもたないとすることも,他方で (現実の実体のではない) 何らか一定の質・量等々をもつとすることも,拒否する。前者は実体が無 (nothing) より生じることを許容することに等しく,後者は実体のみが離在可能 (χωριστόν) であるという教説の否定となる。〈実体素材〉は必ず実体でなければならないが,しかし付帯的にそうなのである。
  3. この解決法も前半部と同一の点で A7 に依拠している。

III.3 第二の解決: δύναμις と ἐνέργεια

こちらの解決もある類であるあり方の区別であると考える。〔詳細は省略。〕

IV. 難読箇所

ほとんどの先行解釈は,アリストテレスをして「(厳密な意味において) 実体は別の実体から生成する」と言わしめる余地を残している。これと反対に本論文は,アリストテレスをして「厳密に言えば,何ものも「ある」ものから生成しない」と言わしめる。こちらの解釈は元々の問題設定についてのある理解に由来するものだった。以下では,この説明が同時に,「〈あるもの〉が〈あるもの〉から生成するか否か」についての議論の詳細とも符合することを確認する。

ὡσαύτως δὲ οὐδ' ἐξ ὄντος οὐδὲ τὸ ὂν γίγνεσθαι, πλὴν κατὰ συμβεβηκός· οὕτω δὲ καὶ τοῦτο γίγνεσθαι, τὸν αὐτὸν τρόπον οἷον εἰ ἐκ ζῴου ζῷον γίγνοιτο καὶ ἐκ τινὸς ζῴου τι ζῷον· οἷον εἰ κύων ἐξ ἵππου γίγνοιτο. γίγνοιτο μὲν γὰρ ἂν οὐ μόνον ἐκ τινὸς ζῴου ὁ κύων, ἀλλὰ καὶ ἐκ ζῴου, ἀλλ' οὐχ ᾗ ζῷον· ὑπάρχει γὰρ ἤδη τοῦτο· εἰ δέ τι μέλλει γίγνεσθαι ζῷον μὴ κατὰ συμβεβηκός, οὐκ ἐκ ζῴου ἔσται, καὶ εἴ τι ὄν, οὐκ ἐξ ὄντος· οὐδ' ἐκ μὴ ὄντος· τὸ γὰρ ἐκ μὴ ὄντος εἴρηται ἡμῖν τί σημαίνει, ὅτι ᾗ μὴ ὄν. ἔτι δὲ καὶ τὸ εἶναι ἅπαν ἢ μὴ εἶναι οὐκ ἀναιροῦμεν. (191b17-27)

ここを正確に解釈する鍵は,前半の「あらぬもの」についての議論との並行性を保存することである。前半部では,まず厳密な意味で「あらぬもの」からは生成しないことを譲歩し,ついで付帯的には生成することを論じていた。したがってここでは,まず厳密な意味で「あるもの」からは何ものも生成しないことを譲歩し,ついで付帯的は生成することを論じている,はずである。だが,こう解釈することには障害があると考えられている。以下でまずこの障害を取り除く。

IV.1. 障害を取り除く

ὡσαύτως δὲ οὐδ' [i] ἐξ ὄντος οὐδὲ [ii] τὸ ὂν γίγνεσθαι, πλὴν κατὰ συμβεβηκός·

生成の [i] 始点 (terminus a quo) と [ii] 終点はどちらも「あるもの」ではない,と主張しているように見える。だが,終点の方は我々の予期する主張ではない。ーー だが,どちらも始点についての主張であると見なせる (cf. A7, 190a5-6, 21f.)。

以上が第一のテクスト的な障害であった。第二の障害はより哲学的である。多くの注釈者は,アリストテレスの「〈あるもの〉からは何も生じない」という主張に当惑し,次のような考えを持ち出した。

  1. 「〈あるもの〉からは何も生じない」の「から」はそれまでの意味と異なっている: これまでは「質料から」の意味で用いられてきたが,ここでは「欠如から」の意味である。(Mansion)
  2. 「から」の意味は変化していないが,「質料と欠如の両方から」という「融合した」意味である。(Lewis)
  3. 「から」の意味はともに「質料から」の意味であるが,ここでは「あるもの」が終点足りえないという主張しかなされていない。(Waterlow)
  4. 「あるもの」が始点ではないという主張ではあるが,まさに「ある」限りのものからはありはしない,という意味である。空気は水から生成するが,「あるもの」である限りの水ではなく,水である限りの水から生成する。(シンプリキオス,Solmsen, Wagner, Charlton, Loux, Horstschäfer)

これらの解釈は譲歩を無化するものだが,実のところそうした努力は不要である。なるほどアリストテレスは質料を欠如「以上の」ものとは考えるものの,生成するものと同様の仕方でそうであるとは考えない。

IV.2. 新しい読み

ὡσαύτως δὲ οὐδ' ἐξ ὄντος οὐδὲ τὸ ὂν γίγνεσθαι, πλὴν κατὰ συμβεβηκός· (191b17-18)

始点がどのように特徴づけられようと,それは〈あるもの〉ではない。

οὕτω δὲ καὶ τοῦτο γίγνεσθαι, τὸν αὐτὸν τρόπον οἷον εἰ ἐκ ζῴου ζῷον γίγνοιτο καὶ ἐκ τινὸς ζῴου τι ζῷον· οἷον εἰ κύων ἐξ ἵππου γίγνοιτο. (191b18-21)

現実世界ではしかし,〈実体素材〉も偶々実体である。

[i] γίγνοιτο μὲν γὰρ ἂν οὐ μόνον ἐκ τινὸς ζῴου ὁ κύων, ἀλλὰ καὶ ἐκ ζῴου, [ii] ἀλλ' οὐχ ᾗ ζῷον· ὑπάρχει γὰρ ἤδη τοῦτο· (191b21-23)

  1. 馬から犬が生成するなら,動物からも生成する。(これは〈あるもの〉からの生成が付帯的にはあることに対応する (反論)。)
  2. しかし,動物である限りのものからは生成しない。(〈あるもの〉からの生成が端的にはないことに対応する (譲歩)。)

[i] οὐδ' ἐκ μὴ ὄντος· τὸ γὰρ ἐκ μὴ ὄντος εἴρηται ἡμῖν τί σημαίνει, ὅτι ᾗ μὴ ὄν. ἔτι δὲ καὶ [ii] τὸ εἶναι ἅπαν ἢ μὴ εἶναι οὐκ ἀναιροῦμεν. (191b25-27)

  1. 譲歩の繰り返し。
  2. 格言に違反していないことの確認。

結論

以上で新しい読みを提示した。これは唯一の読みとは限らないが,少なくとも,アリストテレスが問題を重視した理由,それが別様に解決されない理由,A7 への依拠の仕方,難読箇所の解決,を示しており,あわさって強力な論証をなしている。指針となる新しい着想は,「何ものも既にあるものにはならない」が類についての原則である,というものであった。〔著者は最後にアリストテレスがこの原則を採用した理由についての 'suspicion' を記しているが,省略する。〕