『国家』第1巻の論証構造 Nawar, "Thrasymachus' Unerring Skill"

  • Tamer Nawar (2018) "Thrasymachus' Unerring Skill and the Arguments of Republic 1", Phronesis 63 (4), 359-391.

再読。授業準備。ざっくり要約する (結論部は省略)。この論文のよいところは,「トラシュマコスはどういう主義なのか」という (刺激的だがしばしば曖昧である) 問題設定から手を引き,対話の論理展開に対する個々の発言の効き方に集中している点だと思う。


1 序論

『国家』1巻の解釈者たちは一般に次の二点で合意している。

  1. τέχνη の専門家を不可謬とするトラシュマコスの議論は根拠を欠く。
  2. 後続するソクラテスの反論は驚くほど弱い。

本論文は a, b がどちらも誤りであることを示す*1

2 ソクラテスとトラシュマコスの最初の議論

ソクラテスはトラシュマコスから以下の三つの主張を引き出す。

  1. ある行為が正しい iff. 当の行為がポリスの支配者の利益になる。
  2. ある行為が支配者への服従である / 服従を伴うなら,当の行為は正しい。
  3. 支配者は誤りうる (e.g. 誤って自らを益さない法律を制定しうる)。

そして,ここから矛盾を導く: 支配者を益するところのない法律に従うことは 2 より正しいが,1 より正しくない。

そこでトラシュマコスは 3 を否定し,「この上なく厳密な説明」を与え,帰謬法を免れる。すなわち,

  • (3') 支配者は誤り得ない。

だが,ほとんどの解釈者は,主張 3' が深刻に問題含みだとみなしている。いわく,支配者の「理想化」は正義に関する彼の「現実主義的」見解に反する,単に現実に沿わない,あるいはより大きな不整合を生じる,等々。

3 トラシュマコスの無謬の技能

しかし実は,トラシュマコスの主張はその場凌ぎでも無根拠でもない。テクストに基づいてトラシュマコスの主張を取り出そう。

[1] なぜというに,あなたは過ちを犯した人を,彼の犯したまさにその過ちに関して,例えば医者であると言いますか?あるいは,計算中に過ちを犯した人を,過ちを犯したそのときに,その過ちに関して,計算家であると?[2] いえ,「医者が過ちを犯した」とか「計算家が,文法家が過ちを犯した」と,我々は言葉の上ではそう言うと思います。[3] ですが,彼らの各々は,その人が,我々がその人をそう呼ぶところのものである限り,決して過たない。それゆえ,正確な言論に即するなら ―― あなたも正確な言論にこだわりますからね ―― 専門家は誰も過たないのです。[4] というのも,知識が置いてけぼりにするときに,過つ人は過つのであって,そのときその人は専門家ではないのですから。なので,どんな専門家,知者,あるいは支配者も,支配者であるときには過たないのです。 (R. 340d2-e5)

1-3 は,専門家による τέχνη の使用が過誤と両立不可能だと示唆する。他方 4 は,τέχνη の所有が過誤と両立不可能だと示唆する。それゆえ,トラシュマコスは以下のように考えていると思われる。

  • (TECHNICAL ABILITY) [以下 (TA)]: S が時点 t に (τέχνη にとって構成的な) φ する能力を持つとき,S が t に φ することを試みるなら,S は t に φ するだろう。

(TA) は簡単に斥けるべき主張ではない。その理由は二つある。

  1. (TA) に近い考えは古代の幾人かの思想家によって仮定されていた。
  2. 具体的にはヒポクラテス文書 De Arte, De Locis in Homine.
  3. またイソクラテスソフィストたちの教える τέχναι が δυνάμεις を保証しないと論じる。
  4. (TA) をソクラテスも『カルミデス』(171d1-172a5)・『エウテュデモス』(280a6-b3) で用いている。

「τέχνη / σοφία が成功の十分条件である」というテーゼは,伝統的に (少なくともストア派以来) ソクラテス的だと見なされてきたが,特殊ソクラテス的であるわけではなく,おそらくはソフィスト的起源を有する。したがって,トラシュマコスによる τέχνη の無謬性の主張は場当たり的なものではなく,現行の見解に基づいていたと言える。

4 τέχνη の本性と『国家』第1巻の諸々の議論

次いで,この主張に対するソクラテスの一連の議論を再構成する。議論の問答法的本性を理解すれば,それらの議論が思われているより強いことが分かる。

4.1 τέχνη の利他主義

ソクラテスの第一の論点は,「τέχνη は単に何らかのよさに向かうのではなく,対象にとってのよさに向かう」というものだ。ここの議論も誤解されており,しばしば,航海と医術という少数の例から帰納しているだけだと誤解されている。実際の論証構造はこうである:

  1. 各 τέχνη はそれ自身に益するものか,対象に益するものをもたらす。
  2. 各 τέχνη は完全である。
  3. τέχνη が完全なら,それ自身に益するものはもたらさない。
  4. ∴ 各 τέχνη はそれ自身に益するものをもたらさない。
  5. ∴ 各 τέχνη は対象に益するものをもたらす。

トラシュマコスが 2 を仮定していたという問答法的文脈が重要である。

4.2 トラシュマコスの反論

トラシュマコスはこれに反論する。反論は三つの論点を含んでいる。

  • 第一に 3 が疑わしい。τέχνη が完全であるとしても,τέχνη の応用範囲と独立に利益をもたらすことがありうる。
  • 第二に,僭主の πλεονεξία の例は τέχνη が対象の不利益となる例を示す。
  • 第三に,羊飼いの例に見られるように,1 の選言は網羅的でない。

4.3 トラシュマコスの反論に対するソクラテスの応答: 報酬術,凌ぐこと,成功裏に機能すること

ソクラテスは 4 つの連結した議論を行う。

  1. μισθωτική をめぐる議論 (346a1-347a5),
  2. 真の専門家は πλεονεκτεῖν しないという議論 (349b1-350c11),
  3. 正義は行為・支配・機能の成功に必要だという議論 (351a6-352a10),
  4. 魂が支配・熟慮しよく生きるのは,魂が正しいときであり,そのときのみだという議論 (342d2-354a11)。

a は第一の反論に応じたものとして理解できる。すなわち τέχναι はその δυνάμεις に応じて様々に異なり,各々に特殊な利益をもたらす。

「μισθωτική は τέχνη の利他主義というソクラテスの立場を掘り崩す」という主張は誤っている。第一に,仮にソクラテスが諸前提を受け入れたとしても,量化の範囲を狭めるだけで利他主義は維持できる。第二に,そもそも問答法において μισθωτική の存在が問題になるのはトラシュマコスにとってである。

b は第二の反論に応じている。「τέχνη を持つ者は πλεονεκτεῖν しようとしない」という主張に対しては,τέχνη が完全であるという前提に立つかぎり,トラシュマコスは反論できない。

c, d は「正しい生と不正な生のどちらがよいか」という問題に直接向かっている。c は以下のような論証になっている:

  1. x が互いに不正に働く諸要素からなるなら,x の行為は成功しえない。
  2. x が不正である iff. x が互いに不正に働く諸要素からなる。
  3. ∴ x が不正なら,x の行為は成功しえない。

前提 2 は『国家』の今後の論点となる。

d は機能 (ἔργον) について (単純化すれば) 以下の論証を行う:

  1. x が機能 φ をもつとき,徳 A が存在し,〈x がよく φ する iff. x が A を持つ〉。
  2. 魂は配慮し,支配し,望み,生きる機能を持つ。
  3. ∴ ある徳 A が存在し,〈魂がよく配慮し,支配し,望み,生きる機能を持つ iff. 魂が A を持つ〉。
  4. この徳は正義である。
  5. ∴ 魂がよく支配し,望み,生きる iff. 魂が正義を持つ。

c, d はトラシュマコスへの直接の応答にはなっていないが,ゼロ和的社会観に再考を促す。トラシュマコスの第三の反論に明示的な応答はなされないが,τέχνη の利他主義はそもそも選言が排他的でないことを示唆している。

*1:トラシュマコスの主張は 'groundless' ではないと著者は言うものの,哲学的な正当化を行うわけではない。以降 (§3) では単に当の主張が現に通用していた事実が論証される。