『魂について』Γ3 #2 ファンタシアーの消極的規定

De An. Γ3 427b27-428a24. 今回あまり注解を読めてない。


知性認識することについては,感覚することとは異なっていて,その一つはファンタシアーであり,もう一つは判断であると思われるので,ファンタシアーについて規定する人たちは,かくして,もう一方について述べなければならない。実際,我々がそれに即して「何かが現れファンタスマである」と述べるところのファンタシアーが我々に生じえ,かつ何らか比喩に即してそう述べるのではないとすれば,ある一つの能力ないしは性向が存在し,それに即して我々は判別する。すなわち,真理をつかむか,虚偽をつかむ*1。感覚,思い,理解,知性がこうしたものである。さて,〔ファンタシアーが〕感覚ではないことは,これらのことから明らかである。というのも,感覚は能力か現実活動かであるが (例えば視力と視覚のように),これらのどちらもないとしても,何かが現れるファイネタイことはあるからだ。たとえば眠りにおけることどものように。そして感覚はつねに現前するが,ファンタシアーはそうではない。現実活動の点で*2同一であれば,全ての動物にファンタシアーが属することが許容されるだろう。だが,例えばアリやハチ,ミミズには,属さないように思われる。そして感覚はつねに真である一方,多くの偽なるファンタシアーが生じる。それゆえ感覚対象に関して正確に現実活動しているときには,「それは人間であると我々には思われる」とは,我々は言わない。むしろ,はっきりと感覚していないときに*3,そう言うのである。そしてまた,まさに前述のことが,両眼を閉じているときにも現れる。しかし実際,つねに真であるものには,いかなるファンタシアーもないだろう。例えば理解や知性のように。というのもファンタシアーは偽でもあるから。したがって思いを検討することが残されている。というのも,思いは真とも偽ともなるから。だが思いには確信が従うのに対し (というのも,思いを持つ人が思っていることどもを確信しないことは許容されないから),動物のうちの何にも確信は属さないが,ファンタシアーは多くの動物に属するから。さらに,全ての思いには確信が従うが,確信には説得されていることが属し,説得には言葉が属する。他方,いくつかの動物にはファンタシアーが属するが,言葉は属さない*4

訳注

δοκέω-δοξάζω-δόξα: 思う・思われる,思いなす,思い。πίστις: 確信。πείθομαι: 説得されている。ἀληθεύω-ψεύδομαι: 真理をつかむ・虚偽をつかむ,真である・偽である。

OCT (Ross) を見て訳したが,数箇所で Hicks に従った (異同は脚注に回す)。

要約

  • 通念1 知性認識には判断とファンタシアーの二種あるように思われる。
    • したがって,判断との対比でファンタシアーを規定すべきである。
  • 通念2 ファンタシアーに基づいて我々は「何かが現れである」と発話する。
    • この発話が字義通りに正しいなら,ファンタシアーとは判断・判別の基準となる能力・性向 (∋ 感覚,思い,理解,知性) である。
      1. しかるに,ファンタシアー ≠ 感覚。(i) ファンタシアーは感覚能力・現実活動と独立である。(ii) ファンタシアーは必ずしも現前しない。(iii) ある種の動物はファンタシアーを持たないため,ファンタシアーと感覚は現実活動に関しても同一視できない。(iv) ファンタシアーは感覚と違い偽でありうる。(それゆえ理解・知性とも異なる。)
      2. またファンタシアー ≠ 思い。思いには確信が属するが,確信というものを持たない動物もファンタシアーは持つ。

*1:Ross: 「…のであろうか」

*2:読書会の議論にもとづいて手段の与格で取る。

*3:Ross:「真か偽のいずれであるかをはっきりと感覚していないときに」

*4:Ross は「さらに……属さない」を削除。