『魂について』Γ3 #2 感覚・ファンタシアー・思考は互いに異なる

De An. Γ3 427b7-26.


[427b7] さて,感覚することと思慮することが同一でないことは明らかである。というのも,一方は全ての動物がそれに与っているが,他方は動物たちのうち僅かのものだけがそれに与っているからだ。だが知性認識することも-----知性認識することのうちには正しく知性認識することと正しくなく知性認識することがあるが,正しく知性認識することは思慮,知識,真なる信念であり,正しくなく知性認識することはそれらの反対である------,感覚することと同一でない。というのも,固有のものの感覚は常に真であり,全ての動物に属するが,思考することは偽なる仕方でもありうるし,言葉もそれに属するのでないようなもの〔動物〕には属さないから。というのも,ファンタシアーは感覚とも思考とも異なるから。ファンタシアーそのものは感覚なしに生じることがなく,かつそれなしには判断もない。知性認識は判断と同一ではないことは,明らかである。というのも,我々が望むときには,それは我々の意に随う感受状態であるが (というのも眼前に何ものかが齎されうるから ―― あたかも,記憶するものどものうちに置き,心像を形成する人のように),信念を持つことは我々の意に随うものではないからである。というのも,〔信念を持つことは〕偽であるか真であるかのいずれかであることが必然だから。さらに,我々が何かが恐ろしい,怖いという信念を持つとき,直ちに共通の状態を被る,ちょうど勇気を奮い立たせるものだという信念を持つように。だがファンタシアーに従えば,我々はちょうど絵のうちに恐ろしいものや奮い立たせるものを眺めるときと同じようになる。判断そのものにも様々な種類がある。すなわち,知識,信念,思慮,およびそれらと反対のものである。これらに関する違いについては別の議論をすることにする。

訳注

νόησις/νοέω: 知性認識/知性認識する,δόξα/δοξάζω: 信念/信念を持つ,ὑπόληψις: 判断,ἐφ' ἡμῖν: 我々の意に随う,πάθος: 感受状態,συμπάσχω: 共通の状態を被る。

「ファンタシアー」には訳語を充てなかった。もう少し読んでから決めたい。

要約

様々な心的能力を分類整理する。

  • 感覚 (全ての動物が備える) ≠ 思慮 (少数の動物が備える)。
  • 感覚 (常に正しい,全ての動物が備える) ≠ 知性認識 (誤りうる,少数の動物が備える)。
    • (思慮,知識 (常に正しい) ⊂ 知性認識 (誤りうる)。)
    • ∵ 感覚にファンタシアーが,ファンタシアーに判断が (一方的に) 依存する。
      • ファンタシアーとは異なり判断は実在からの規範的制約を蒙る。

内容注

  • Hicks: φαντασία 導入部の γάρ は何を説明するのか。Freudental は「φαντασία は感覚の一種だが,全ての動物にはない」という想定反論に対し,φαντασία を感覚・思考の両方と区別することで応えるものとするが,さすがに省略が極端である。パキウスは φαντασία を中間に位置づけることで説明していると解するが,根拠が薄い。Hicks は νοεῖν の分類に φαντασία を含めなかったことの説明と考える。
    • だがここでは上述した通りパキウス路線で解釈する。(最初 Freudental 路線で解釈していたが,読書会で議論して考えを改めた。)
  • 「知性認識は判断と同一ではない (οὐκ ἔστιν ἡ αὐτὴ νόησις καὶ ὑπόληψις)」: νόησις = φαντασία (Hicks, Polansky).
  • ἔτι 以降が φαντασία / ὑπόληψις について独立の相違点を提示しているのかよく分からない。