SEP「形而上学的根拠付け」Bliss and Trogdon, "Metaphysical Grounding" #2

  • Ricki Bliss and Kelly Trogdon (2016) "Metaphysical Grounding" The Stanford Encyclopedia of Philosophy (Winter 2016 Edition), Edward N. Zalta (ed.), pp.16ff.

記事の後半部。前半部は根拠付け概念そのものの内実を議論していたが,以下では様々な応用や懐疑論が取り上げられる。わりあい専門的な議論が多く所々ついて行けていないが,理解できる範囲で要約する。

6 応用

根拠付け概念について,主に二つの応用例を論じる。

6.1 心的なものについての物理主義

第一に二元論者 (dualist) と非還元的物理主義者 (non-reductive physicalist) の論争を理解する上で役立ちうる。

非還元的物理主義の定義の際に一般的に用いられるのは形而上学的必然性の概念である。すなわち: 性質 P が性質 Q を形而上学的に必然化する iff.〈P が例化されるなら,Q が例化される〉ことが形而上学的に必然である。これを用いて,非還元的物理主義の立場は次のように規定される: (i) あらゆる心的性質 M について,M が例化されるなら,M を形而上学的に必然化するようなある物理的性質 P があるが,(ii) 逆は成り立たない。

だが,これは物理的性質の心的性質に対する優先性を正しく捉えていないように思われる。というのも,我々はふつう心的性質の数学的性質に対する同種の優先性 (数学的なものについての非還元的現象主義) を認めないにも拘らず,上記の二項目とパラレルな以下のテーゼを認めるように思われるからである: (i) あらゆる数学的性質 P について,P が例化されるなら,P を形而上学的に必然化するようなある心的性質 M があるが,(ii) 逆は成り立たない。―― というのも,どの数学的性質が例化されるかということは,必然的な事柄だからである。

そこで,上記の定式において,純粋に様相的であるわけではない「根拠付け」概念を,「形而上学的必然化」に代えて用いることが考えられる。そうすると,〈物理的性質 - 心的性質〉関係と〈心的性質 - 数学的性質〉関係の非対称性が明示できる。

Wilson は Fine による根拠付け概念の特徴付け (根拠付けに関する非実在論) に即してこの定式化を批判する。だが Fine の特徴付けの是非は争いうるし,Fine の議論をより寛容に解釈することもできる。

6.2 形而上学的基礎付け主義

「具体的事実は基礎的事実 (fundamental facts) か派生的事実 (derivative facts) かのいずれかであり,世界が前者から後者へと階層的に構造化されている」というテーゼ (形而上学的基礎付け主義) は,根拠付け概念を用いて次のように定式化できる: 全ての具体的事実は,別の具体的事実に根拠付けられていないか (基礎的事実),別の具体的事実に根拠付けられていない具体的事実によって根拠付けられている (派生的事実)。基礎的事実が全域的であるとすれば一元論 (monism) が帰結し,局所的であるなら (世界のある部分のみに関わるなら) 多元論 (pluralism) が帰結する。

このテーゼは第一に,根拠付けはきちんと基礎付けられている (well-founded) という主張と関連する。すなわち,根拠付けのすべての連鎖が,それ自身根拠付けられていない事実で停止する (Schaffer, ↔ Bliss, Rosen)。―― なお,根拠付けられていない事実で停止しないということは,根拠を欠く (根拠付けられていない事実によって究極的に根拠付けられていない) ということを意味しない。

第二に,根拠付け概念に基づく形而上学的基礎付け主義は,根拠付けのドメイン狭義半順序集合をなす (根拠付け関係が非反射的・非対称的・推移的である) ことを要求する。なお非反射性・非対称性については異議も唱えられているが (Lowe, Fine, Paseau / Rodriguez-Pereyra, Priest),決着は付いていない。また仮に一般に狭義半順序をなさないとしても,狭義半順序をなす根拠付けによってある関係を特徴付けることはできる。他方,根拠付けが狭義半順序をなす場合でも,形而上学的基礎付け主義は他の理由から斥けられうる。

6.3 さらなる応用例

他にも二つの応用例が考えられる。第一に truthmaking の特徴付けに用いうる。e.g. x が命題 p の truthmaker である iff. [x が存在する] が [p] を根拠付ける。

第二に内在性 (intrinsicality) 概念を分析できる (省略)*1

他にも知覚的知識,時間的存在論,心的内容の本性,等々に関する応用が考えられる。

7 〈何が何を根拠付けるのか〉という事実を根拠付ける

〈何が何を根拠付けるのか〉(what grounds what) という事実を根拠付けるものはあるか,あるとして何であるか?

例えば「タクシー運転手ががピケを張っている」という事実を《ピケ》(PICKET),「ストが起きている」という事実を《スト》(STRIKE),《ピケ》が《スト》を根拠付けているという事実を《根拠付け》(GROUND) とする。《根拠付け》を根拠付けるものはあるか?仮に全ての事実が根拠付けられているかいないかのいずれかであるとすれば,《根拠付け》もそうである。

世界についての正しい基礎的記述はスト (やタクシー運転手やピケ等々) に言及しないだろう,という直観に基づくなら,以下のようなテーゼを立てることができる: ストに関する事実はストに関係しない事実によって根拠付けられる (ストの根拠付けテーゼ)。このテーゼを維持する限り,《根拠付け》が根拠付けられていないとすることはできないように思われる。

《根拠付け》が根拠付けられているという路線においては,二つの提案がなされている。一つは《ピケ》が《根拠付け》を根拠付けるというものだ。この場合ストの根拠付けテーゼは維持される。ただしこのとき,説明に特有の形式があるかどうか,また《ピケ》と《根拠付け》や《根拠付け》を根拠付ける事実等々のあいだに適切な種類の説明をなす結びつきがあるかどうか,が問題になる。

もう一つの提案は《ピケ》と《スト》の結びつきに直接言及する事実が《根拠付け》を根拠付けるというものだ*2。《ピケ》と《スト》の結びつきは《ピケ》の本性に存する,という事実を《本質》(ESSENCE),《ピケ》と《本質》の連言的事実 (conjunctive fact) を《連言》,《連言》が《根拠付け》を根拠付けるという事実を《根拠付け*》とする。《根拠付け*》も同様に根拠付けられ,これが無限に進む。この場合もストの根拠付けテーゼは維持されるが,問題は《本質》を根拠付けるような事実が存在するかどうかということである。

〈何が何を根拠付けるか〉の根拠付けという考え自体がはらむ問題の一つは,そもそも根拠付けが我々の描像に導入されるということについて説明できなくなるかもしれない,というものだ。

8 根拠付けに対する懐疑論

いくらかの哲学者は,(形而上学的探求全般は疑っていないにも拘らず,) 根拠付け概念に懐疑的である。

  • 一つには「ストなしの (strike-free)」基礎的記述ができないという議論がある (§7)。
  • Hofweber は,根拠付けに関する議論を,日常的観念 (quotidian notions) によって分析できない非日常的観念に訴える「密教的」形而上学だとする。―― だが根拠付けは日常的に用いられる概念であるように思われるし,非日常的観念に訴えることが必ずしもまずいわけではない。
  • Daly は根拠付け概念が不整合を来すと論じる。(i) 根拠付け概念を用いて多くの準術語的概念 (e.g. 基礎性) を分析できる,そして (ii) 根拠付けとそうした観念との関連性が,根拠付けをめぐる議論の意義を示す,と根拠付けの支持者が考えているとしよう。このとき (i) から (iii) 根拠付けの理解と独立には我々はそうした準術語的概念の理解を有していないという主張が出てくる。だが (iii) と (ii) は両立しない。―― だが根拠付けの支持者が (iii) を支持すべき理由は不明瞭である。
  • Koslicki や Wilson は,以下のような根拠付けを支持する議論に反駁する:「形而上学的関係はこれこれの重要な仕方で統一されており,それゆえ,ある際立った肌理の粗い形而上学的関係がある。とりわけ,根拠付けは諸関係の類ないし確定可能なもの (determinable) である」。
    • Koslicki: 根拠付け関係が統一すると考えられている〈確定可能-確定的関係〉と〈類-種関係〉は,重要な点で相違している。すなわち前者においてはより特殊な性質によってそうでない性質が例化されるが,後者においては逆である。
    • Wilson: 根拠付け関係に含まれるとされる様々な 'small-g' 関係 (トークン同一性,現実化,外延的な部分-全体関係,集合の要素関係,真部分集合関係,確定可能-確定的関係) はあまりに異種的であり,統一的要素を見出しがたい。
    • Koslicki & Wilson: 仮にこれらを重要な仕方で統一する形而上学的関係があったとしても,ある際立った肌理の粗い形而上学的関係があるとはまだ主張できない*3

Koslicki/Wilson の議論は重要な問題を提起している。一つは「根拠付け諸関係の統一を支持する人々は,どのような形而上学的諸関係が当の諸関係だと考えているのか」。もう一つのより一般的な問題は,「いかなる条件のもとで,特定の諸関係を統一に関する考慮のうちに置くことが正当化されるのか」である*4

*1:あまり理解できなかった。多分このあたりの内容と関連する: https://plato.stanford.edu/entries/intrinsic-extrinsic/#BroaLogiTheo

*2:ここの議論も込み入っていてわかりにくい。

*3:これのポイントも少しよく判らない

*4:後者はよりメタな考慮だと解釈する。