『自然学』A3 #2 パルメニデス批判

Phys. A3 186a22-b14. まあパルメニデスが絡む議論は難しい。いかにも哲学ぽくて楽しくはあるけど。あと何も考えずに訳すと全く読める日本語にならない。


[186a22] パルメニデスに対しても議論のこうした方式がある,他のいくつかの議論は固有であったとしても。そして論駁は,一方で〔前提が〕虚偽であることによって,他方で〔帰結が〕結論されないことによって〔なされる〕。虚偽であるのは,あるものが一通りに語られると――〔実際は〕多様に語られるのだが――前提している限りにおいてであり,結論されないのは,白いものどものみが前提されるなら,「白い」が一つのことを意味表示するとしても,数多くの白いものどもも一つであるわけではないからである。というのも,連続性によって一つであるのではなく,説明規定によって一つであるのでもないだろうから。というのも,〈白いにとってのあること〉と,〈受容したものにとってのあること〉とは,異なるだろうから。また,白いもののほかに何ものも離れてありはしない。というのも,離れている限りで,ではなく,むしろ〈そうあること〉の点で,白と,〔白が〕それに属するところのものとは異なるから。だが,このことを,パルメニデスはまだ理解していなかった。

[196a32] 実に,〔「ある」という述語が〕それに述定されうるところの〈あるもの〉が一つのものを意味表示すると〔パルメニデスが〕理解しているだけでなく,それが〈まさにあるもの〉であり,〈まさに一つであるもの〉であるとも理解していることは,必然である。というのも,付帯的な事柄は,何らかの基礎に置かれるものについて述べられるのであり,したがって,〈あるもの〉がそれに付帯するところのものは,あらぬだろうから (というのも,〈あるもの〉と異なるから)。したがって,何かあらぬものが,あるだろう。そして,〈まさにあるもの〉は他のものに属することはありえないだろう。というのも,それ〔=他のもの〕自身何かあるものであることはありえないだろうから――〈あるもの〉が多くのことを意味表示し,その結果,各々が何らかあるのでなければ。だが,〈あるもの〉は一つのことを意味表示すると仮定されている。

[186b4] それでは,もし,〈まさにあるもの〉が何ものにも付帯せず,むしろ <他のものどもが> 個々のものに付帯するなら,いかにして,〈まさにあるもの〉は,〈あるもの〉を〈あらぬもの〉より一層意味表示するのだろうか?というのも,〈まさにあるもの〉が [同一であり] 白くもあるなら,〈白にとってのあること〉は〈まさにあるもの〉ではなく (というのも,あるものはそれに付帯することもできないから。というのも,何ものも,ありながら,〈まさにあるもの〉でないものであることはないから),それゆえ白いものはあらぬ。何かであらぬという仕方ではなく,全くあらぬという仕方で〔あらぬのである〕。したがって,〈まさにあるもの〉は,あらぬ。というのも,「白い」ということは真だが,これは〈あらぬもの〉を意味表示していたから。したがって,〈白いもの〉をも〈まさにあるもの〉は意味表示する。したがって,〈あるもの〉は多くを意味表示する。 [186b12] なので,あるものは大きさを持たないだろう,あるものは〈まさにあるもの〉であるのだから。というのも,部分の各々にとっての〈そうあること〉は異なるから。

訳注

半角の <> 内は OCT の挿入,[] 内は OCT の削除。ここでも従う。

訳語: ἁπλῶς: 一通りに (↔ πολλαχῶς),ἀσυμπέραντος: 結論されない (LSJ や Bonitz を見る限り hapax か。LSJ の訳語は 'inconclusive')。τῷ εἶναι: 〈そうあること〉の点で,τὸ ὄν: あるもの (適宜〈角括弧〉を付した。もちろん「或るもの」ではない),τὸ συμβεβηκός: 付帯するもの (Charlton は 'that which supervenes' と訳す)。

'καὶ τὸ λευκὸν σημαίνει ὅπερ ὄν' (b11f.) は結論に鑑みれば 'ὅπερ ὄν' を主語に取るべきではないかと思う (↔ Ross, Charlton)。

要約

  • パルメニデスは,誤って,(1)〈あるもの〉は一義的だと前提し,(2) 述語の一義性から「述定の対象が一つである」が帰結すると考えた。
    • 仮定 (2) を立てた原因は,属性とそれが属する対象とのあり方の違いを見逃したことである。
  • 実際,パルメニデスの議論は,(a)〈あるもの〉が付帯するものだとすれば,仮定 (2) を用いている。このとき,「あらぬものがある」ことになり (↔ fr. 7),不条理。
  • 他方,(b)〈あるもの〉が付帯するものでないなら,他の属性 P について,P なるものは〈あるもの〉ではないことになり,不条理。他方〈あるもの〉が P なるものを意味表示するなら,多義的である (仮定 (1) の棄却)。
  • 〔あるを「有限」とする〕パルメニデスの議論も,〈まさにあるもの〉という規定と矛盾する。

論証構造の理解は概ね Ross の整理に従った。

内容注

  • 'τῷ εἶναι' という表現は面白い。偶々最近読んだ de An. Γ2 にも出てきた。今回の箇所では (a) τὸ εἶναι + dat. という表現と相関し,(b) τῷ λόγῳ と同義的に用いられている。(既に A2 末尾で τῷ λόγῳ は τὸ τί ἦν εἶναι と紐付いている。) Hicks が de An. の注解で logically などと訳していて,そのときは訳しすぎではないかと思っていたが,こうした用法を見れば納得できる。
  • 'ὅπερ ὄν' の解釈について Charlton は 'identical with the real' と解する論者に反対し,('certain body condition' という意味での 'healthy' がそうであるような意味での) 'precisely what is something' だと解釈する。あまり賛成できない。この解釈だと,アリストテレスが 'ὅπερ ὄν' を一義性条件と別に立てていることが説明できないと思う。
  • Charlton は若干の哲学史的な比較を行っている。すなわち (1) 第三段落の議論は存在と無をめぐるヘーゲル『大論理学』冒頭の議論と類比的である,(2) アリストテレスの批判が,例えばスピノザのより洗練された一元論に的中するかは疑わしい。