黒田『行為と規範』

一月から読んだものを記録しておく。

黒田亘 (1928-1989) の遺稿集。二部からなり,I「行為と規範」は放送大学のテキストの再録,II「志向性と因果性」は標題のテーマに関する三篇の公刊論文。


第I部は倫理学的な種々の主題についての教科書的総説だが,「実践哲学序論,あるいは哲学的行為論の序説」(3頁) として「行為」を中心とした論述を一貫させている。Anscombe, Intention に依拠した行為概念の規定 (ch.1) に始まり,ムーア的な事実/価値の峻別を行為の正当化の場面の考察から批判 (ch.4),またそれと軌を一にして原因/理由の峻別を批判し,(今度はアンスコムに反対して) 意志行為の因果的説明を試みる (ch.6-7)。行為の因果連関の第一の原因たる身体的存在として「人格」を規定し (ch.8, ↔ ロック),そうした行為連関の枠組みの中で,一方で価値論的問題としてアクラシア (ch.10) や快苦および幸福の概念を (ch.10-11),他方そうした枠組みにさしあたり収まらない正義や契約といった概念を (ch.13-15),検討する。

第II部は「行為の志向性」(意志行為の基礎構造についての黒田自身の所説の展開),「志向性の文法」(サールの行為論の詳細な批判),「ヴィトゲンシュタインと因果」(アンスコムによるウィトゲンシュタインの反因果的解釈の批判) の三篇からなる。以下に第一論文の内容を要約する*1


序論

「志向性と因果性は異なるカテゴリーに属する」と信じる人は多いけれども,基礎的なレベルの経験においては,志向性はある種の因果性である。このことを示すのに,三つの先行する議論が役立つ。

  1. ウィトゲンシュタイン: 志向作用とその対象の関係は「記述の同一性という概念的・文法的性格の関係」である。
  2. アンスコム: 意志行為は「ある記述のもとで」のみ意志行為である。
  3. デイヴィドソン: 因果言明が結びつける二つの出来事は「ある記述のもとで」指示された出来事である。

これらの見解をもとにして,「志向性現象における作用と対象の関係〔…〕を,同一の記述によって媒介されたふたつの事象の因果的結合と解釈する」(163頁) ことが可能である。

ところで,黒田説は志向性を因果的に解釈する点ではサール説に似るが,しかし根本において異なる。サールは「記述」を予め成立した志向性 (心的表象の志向的内容) の「描写」,記録ないし報告,とする点で誤っている。(記述はむしろ行為主体が行為に与える定義である。) また 'directions of fit' という図式は物理的実在と同等に意志的表象の実在を措定するが,これも同様に誤りである。

本論

因果関係には,観察に基づき確定される因果関係と,動作や気分・感情の変化に関わり直観的に把握される因果関係 (mental cause, 識因) とがある。志向性の因果的解釈を目指すには,後者を検討しなければならない。

上述の志向的因果性の定式化における「二つの事象」とは何か?Searle 的な見方からすれば,意志と動作である。だが実のところ「意志体験」なる原因は虚構にすぎず,何かを意志行為たらしめるものが当の行為の外側にあるわけではない。意志行為の原因は,当の行為の内的構造が示している。(e.g. スイッチを押すのは,門灯が点いていないのが見えたからであり,来客があるのを思い出したからである。)

意志行為の志向的構造は『ニコマコス倫理学』三巻に従ってうまく定式化できるが,この定式は結局のところ因果連関を志向性に従属させるものである (172-5頁,省略)。

では,志向性の因果的解釈はいかにして可能か。黒田説はこうである。「原因としての意志」は擬制的存在であるが,そうした観念は,意志行為を支える慣習・制度 (「意志表明の言語ゲーム」) の一部として効力を発揮する。つまり,意思の表明には意思の実現が伴うという相互信頼 (ヒューム的な convention) が,因果的予測を可能にするのである。そして,そうした相互期待のあるところでは,言語的な意志表明がなくとも,意志の存在が推定され,因果的予測の際に頼りとされる。これが「原因としての意志」という観念の由来である。

他方,行為の意志を特定する手がかりは,行為の記述にしかない。意志とは,「記述を同じくするふたつの事実の因果結合」という志向的因果の論理形式によって行為を語るために言語に導入されたタームなのである。

「原因としての意志」のもうひとつの起源は基礎行為 (それをすることで他のあらゆる行為をするような身体的動作) の訓練であり,それは直示により動作を表す言葉と動作そのものを連合させるという仕方で行われる。あらゆる行為の形態は,指図に従って動作するという訓練において経験された志向的因果の変容なのである。


第一論文に関する所感。

  • サールを批判する箇所で,記述は客観的報告ではなく行為主体による定義である,と述べられているが,これはこれでサールと逆方向に極端な感じを受ける。少なくとも「行為主体による」という規定には検討の余地があるのではないか。
  • 「虚構」「擬制的」という言葉づかいは少し難しい。「対応する物事がないのに,あるかのように語られる」くらいの意味だろうか。
  • 行為の訓練から「原因としての意志」の観念が生じるという議論は尤もらしいが,必ずしも「基礎行為」に限定する必要はないようにも思う。我々は指差すこと,ボタンを押すこと,鍵盤を叩くことをたいていは別々に学ぶのであって,かりに「人差し指を突き出すこと」という基礎行為がそれに共通しているとしても,そうした基礎行為そのものを学ぶわけではないから。(あるいは「基礎行為」が「身体の一部をこれこれの仕方で動かす」という動作であるとは限らないと述べたほうが正確か。)

また全体を通して,単純な疑問が二点ある。

  • アンスコムの「観察によらない知識」が「絶対に誤ることのない特殊な直観知をもっている,という意味ではない」(13頁) なら,なぜそれを知識と呼びうるのか。(これはアンスコムに対する疑問*2。)
  • 黒田は「出来事の因果連鎖」と「行為の因果連関」を区別し,前者は「不定無限に遡りうる」のに対し,後者は「基礎行為」を「第一の原因」とする,と述べる (67-68頁)。この基礎行為とは例えば「右手を挙げる」ことであり,それに先立つ意志作用や筋肉の収縮などではない,とする (65-67頁)。すると,「行為の因果連関」において「原因」であるとはどういうことなのか。(「日常的な因果了解」(61頁) は役に立たない。時間的先行関係があるとは限らないし (筋肉の収縮),必要十分性は「原因」と「結果」を区別しない。)

土屋俊は「解説」で,1970年代の倫理学の動向としてメタ倫理学への批判・反省があり,「行為と規範」の行論の背景にもそうした態度がある,と述べている。なにか重要な指摘なのかもしれないが,よく分からない。

*1:なお他のものについても述べておくと,第二論文の批判は痛烈だが説得力がある。総合的評価も肯綮に中っている:「全体の構図は単純明瞭で,見通しがよいという利点はたしかにある。しかしこのサール説には,遺憾ながらフェノメノジーの裏づけが欠けている」(198頁)。批判の立脚点は第一論文からも見て取れる。第三論文はウィトゲンシュタインの「過渡期」(『青色本』『茶色本』) の思考と『哲学探究』の思考の相違点を指摘し,アンスコムは前者の路線から後者を誤って解釈している,と論じている。残念ながら未完で『探究』テクストの検討の段階には入っていない。

*2:ただ――穿った見方をすると――アンスコムがこれを「知識」と呼んでしまうことは,黒田が行為の記述を「定義」と呼んでしまうことと似た原因があるようにも見える。/ これについてアンスコムを研究している院生のひとに訊いてみたところ,(僕が趣旨を誤解していなければ)「アンスコムは自己知への関心から intentional action を論じているので,例えば行為一般の客観的理論を志向するデイヴィドソンとははじめから方向性を異にしている」ということだった。