『自然学』A2 #4 〈一つ〉の分析を通じたエレア派批判

Phys. A2 185b5-186a3. ギリシア語がやや省略的で難しい。今回の箇所との対応に鑑みれば,前回の標題はむしろ「〈全てのもの〉の分析を通じたエレア派批判」とすべきだったかもしれない。A巻2章はここまで。


[185b5] さらに,一そのものも,ちょうど存在するもののように多様に語られるので,「全てのものは一つである」といかなる仕方で語られるのかを考察しなければならない。一は,「連続的なもの」,「分割不可能なもの」,「それらに同一の説明規定,すなわち〈それらにとって,あるとは何であるかということ〉の説明規定があるところのもの」(ちょうどワインと葡萄酒のように) であると語られる。そこで,もし連続的なら, 一は多である。というのも,連続的なものは無限に分割可能だからである。(部分と全体について難問があるが,おそらくこの議論に関係するものではなく,むしろ当の難問そのものに関係するものである。「〈部分と全体〉は,一か,それより多いか」「いかにして一であるか,あるいはより多いのか」「もしより多いなら,いかにしてより多いのか」。また連続的でない部分についても〔難問がある〕。またもし〔二つの部分の〕両方が全体と分割不可能なものとして一つであるなら,それら自身もそれらと不可分になるということ〔が難問である〕。) だが実際,もし分割不可能なものとしてあるなら,決して量も質もなかっただろうし,むろん,(メリッソスが主張するように) 存在するものが無限であるわけでもなく,(パルメニデスが主張するように) 限られているわけでもないだろう。というのも,限界は分割不可能であるが,限られるものは分割不可能であるわけではないから。だが実際,存在するもの全てが (ローブと外套のように) 説明規定において一つであるとすれば,それらはヘラクレイトスの言論となってしまう。というのも,善いことと悪いこと,善いことと善くないことが同一であることになるだろうし,したがって,同一のものが善であり善でないことになるだろうし,人間であり馬であることになるだろうから。そして,この議論は,存在するものが一つであることについてではなく,むしろ〔存在するものが〕何ものでもないことについての議論だろう。また「こうしたものである」ことと「これだけのものである」ことは同一であるということについての議論だろう。

[195b25] 昔の人々のうちでより後世の人々も,彼らにとって同じものが同時に一にして多になりはしないかと困惑した。それゆえに,ある人々は (リュコフロンのように)「である」を除去した。他の人々は,「人間は白くあるのではなく,白化されているのであり,歩く人があるのではなく,歩いているのである」と語法を作り変えたが,それは,単一の仕方で一あるいは存在するものが語られるように,「である」を適用して一を多であるとしないためであった。だが存在するものは,説明規定によって (例えば白であることと音楽的であることは異なるが,同一のものが両方である。したがって一は多である),あるいは分割によって多である,ちょうど全体と諸部分のように。ここで人々は直ちに難問に陥っており,一つのものが多であることは〔しぶしぶ〕認めていた。あたかも,同一のものが一かつ多であることは,反対のものでなくとも,許容されないように。というのも,一は可能態においても,終局実現態においてもあるから。

訳注

  • "οὐ τὸ πεπερασμένον" (b19) は asyndeton か。一応 δέ を了解する。
  • "περὶ τοῦ μηδέν" は Ross, p.469 などに従い "περὶ τοῦ μηδὲν εἶναι τὰ ὄντα" と補って訳した。"περὶ τοῦ μηδὲν ἓν εἶναι τὰ ὄντα" の可能性も考えられるが,文脈を考えれば前者の方がよいだろう。

要約

「一」には (a) 連続的 (b) 分割不可能 (c) 同一の説明規定がある,という意味がある。だが,

  1. 連続的なら分割可能であり,多である。
  2. 分割不可能なら,量も質もなく,無限でない。また,限界もありえない。
  3. 説明規定が単一なら,およそ相反するもの (善と悪,人間と馬) は同一のものに属しえないので,存在者は何ものでもないことになる。また,カテゴリーの違いも消滅する。

したがって,どの意味でも,「全ては一つである」というエレア派の主張は維持できない。

後代の論者は言語の改訂によってこの主張を維持しようとしたが,上記の事情ゆえに結局失敗した。

内容注

ここは Ross が色々と有益な注を与えている。

  • 一の多義性については Metaph. Δ6 が対応箇所。
  • "πῶς πλείω" の反復 (b12-14) について,Ross は一つ目を「いかにして πλείω であり得るのか」,二つ目を「いかなる意味で πλείω か」という意味に了解する (p.468)。これは良いと思う。
  • "εἶναι" (a1) で思考の中断があり,ὥσπερ 節は ἠπόρουν καὶ ὡμολόγουν (admit) という人々の態度に対する注釈である (Ross)。これも良い。