『自然学』A2 #3 カテゴリー論に基づくメリッソス批判

Phys. A2 185a20-b5. よく言って鮮やかな,わるく言えば身も蓋もない論証。依拠する理論の当否や歴史的メリッソスへのその適用の可能性は当然別途考えるべきところ。


[185a20] 全てのことどもの最もふさわしい開始点は――存在するものは多様に語られるのだから――いかにして「全てのものは一つである」と語る人はそう語るのか,「全てのもの」は実体か,量か,質か,また今度は「全てのもの」は一つの実体か (例えば一人の人間,一頭の馬,一つの魂のように),それとも一つの量か (例えば「白い」「熱い」や他のそうしたことどもの何かのように)〔といったことである〕。というのも,これら全ては大いに異なっており,これら全てを語ることは不可能だから。というのも,もし実体も量も質もあるなら,これらが互いから分離されているにせよいないにせよ,存在するものは多くあるから。全てのものが量または質であるなら,実体があるにせよあらぬにせよ,奇妙である――もし不可能なことを奇妙と言うべきだとするなら。というのも,他のものどものうち何ものも,実体から離れてあるわけではないから。というのも,全てのものは実体という基礎に置かれるものについて述べられるからである。

[185a32] メリッソスは,存在するものは無限である,と主張する。したがって,存在するものは何らかの量である。というのも,無限は量のうちにあり,実体ないし質ないし属性が無限であることは,付帯的にでなければ許容されない,もしあるものが同時に量でもありうるとすれば。というのも,無限なものの説明規定は量を付加的に用いるが,実体や質は用いないから。なので,もし実体も質もあるなら,存在するものは二つであって一つではない。他方もし実体のみがあるなら,無限ではなく,決して大きさを持たない。というのも,〔大きさを持つなら〕何らかの量であるだろうから。

訳注

訳語: οὐσία: 実体,πόσον: 量,ποῖον, ποιότης: 質。

Charlton は「'λευκός' は単なる「白」ではなく dark に対する pale だ (indefinite な属性だ)」と注意している (p.45)。確か Owen も "Inherence" で似たようなことを述べていたと思う。真偽は不明。

要約

一元論を批判する。(1)「全てのもの」は何かのカテゴリーに属するが,(a) 二つ以上のカテゴリーに属するなら,一元論は成立しない。(b) 実体以外のどれかのみに属するとは言えない。(したがって,実体のみが候補となる。) (2) 「存在するものは無限である」(メリッソス) という主張は,無限が量に属する以上,成立しない。

内容注

Charlton, pp.55f. は第一段落について以下のように述べる。すなわち:

  • アリストテレスの議論に即して言えば,何かが語られる仕方は4通りに整理できる:
    1. 「一つの事物 (Metaph. Z 1030b3)・イデア (EN A 1096a30) に即して」異なる事物が何かだと呼ばれる (e.g.「球形の」)。
    2. ある基準に対し超過・不足することのゆえに (e.g. 大きい / 小さい)。
    3. 類比によって (EN A 1096b28)。
    4. 単一のものに関係することによって (Metaph. Γ 1033a33-4, 'πρὸς ἓν', e.g. 健康)。
  • また τὸ ὄν が「多様に語られる」とは言語表現の多義性を意味しないし,したがって "is" の存在 / 述定 / 同一性用法といった区別とも関係ない。アリストテレスの「ある」はそれ自体では専ら be real*1 / exist を意味する。
  • エレア派の議論は τὸ ὄν が (1) の仕方で語られるとする誤りを犯した。むしろ (4) の仕方で語られる,というのがアリストテレスの見解であり,「単一のもの」すなわち論理的に第一のクラスが「実体」である。

大きい話かつ慣れない話題なのでなんとも言えない。メモ書き程度に認めておく。なお Ross はこの箇所には特筆すべき注は付けていない。

*1:Charlton は οὐσία をなんと 'reality' と訳している。