『自然学』A2 #2 エレア派批判の準備

Phys. A2 184b25-185a20.


[184b25] さて,存在するものが一つでありかつ不動であるかどうかを探求することは,自然について探求することではない。というのも,ちょうど,原理を棄却する者に対しては,幾何学者にとってもはや議論はなく,むしろ,他の学知か,すべての事柄に共通の〔学知〕に属する〔議論〕があるように,原理について〔探求する〕者にとって議論がないからである。というのも,もし〔原理が〕ただ一つだけであり,このような仕方で一つであるなら,それ以上原理はないからである。というのも,原理は或るものの,ないしは或るものどもの原理だからである。

[185a5] 〔原理が〕このような仕方で一つであるかを探求することは,議論のために議論されたことどもに属する何であれ他の措定に反対して問答することに似ているし (例えばヘラクレイトス的措定のように,あるいは,誰かが,存在するものは一人の人であると主張するとすれば〔,その主張のように〕),あるいは,争論的な議論を論駁することにも似ている ―― ちょうどメリッソスとパルメニデスの議論が両方ともそうであるのだが。というのも,それらは虚偽を前提しており,また推論になっていないからである。いやむしろ,メリッソスの議論は,平俗であり,困難を有しない。むしろ奇妙な一つの事柄が与えられており,他のことどもは〔そこから〕帰結する。これは全く難しくない。

[185a12] 自然的にある,全てのものども,ないしは幾らかのものどもが動かされるということが,我々にとって仮定されているとしよう。このことは帰納から明らかである。

[185a14] それと同時に,全てを論駁するのはふさわしいことではない。むしろ,ある人が原理から示しつつ虚偽を述べている限りのことどもを論駁し,そうでないことは論駁しないことがふさわしい。例えば,断片図形による正方形化を論破することは幾何学者に属するが,アンティポンの正方形化を論破することは幾何学者に属さない。

[185a17] そうであるにも拘らず,自然について〔探求するの〕でないとしても,自然に関する困難を彼らは語っていることになるのだから,それらについて少し討論するのがおそらくよいだろう。というのも,その考察は哲学であるから。

訳注

訳語: τὸ ὄν: 存在するもの,λόγος: 議論,ἐπιστήμη: 学知,διαλέγομαι: 問答する・討論する,θέσις: 措定,λύω: 論駁する,ὑπόκειμαι: 仮定されている,διαλύω: 論破する。―― ただ λύω は少し訳しすぎかもしれない。

要約

エレア派の「原理は単一で不動」説を俎上に載せる。この説は自然学に属さないし,この説の検討は争論的議論の検討に似る。今後の議論の方針として,(1) 自然的事物が可動であることは前提する。(2) 原理から示されている虚偽のみを論駁する。なおエレア派説の検討は,自然学には属さないが,哲学ではある。

内容注

第一段落。Ross は Pacius に倣いここから二つの論証を取り出す: (i) 原理を不動とする者は,自然の原理を否定している (-a3)。(ii) 原理を単一とする者は,原理の存在そのものを否定している (a3-a5)。―― だが (i) をここから読み取れるのかどうかは定かでない。「すべての事柄に共通の〔学知〕」(と補うほかない) を Ross は形而上学と解する (Metaph. 1026a20. ↔ APo. A11 77a26-9: διαλεκτική, Charlton)。これはそうかもしれない。

第二段落。メリッソスは Metaph. A 986b25 でもクセノファネス共々「より鄙俗である (ἀγροικότεροι)」と形容される。「他のことどもは……帰結する」は「推論になっていない」の訂正である ("μᾶλλον δ'")。(以上 Ross.)

第三段落。"ἐπαγωγή" の一用例。Charlton の言う通り,これが議論の basic assumption だろう。

第四段落。円積問題について Ross は長大な注を付している (pp.463-466)。cf. 斎藤憲「キオスのヒポクラテスと論証数学の発明」(http://greek-philosophy.org/ja/files/2013/03/Saito2013.pdf)。

  • 狭義の διαλεκτική に属する術語 (θέσις, ὑπόκειμαι) が登場しており,問答の相手にエレア派を迎えるような場面設定を行っているのかもしれない。(ただし ἔνδοξα 全般ではなく「原理から示す」事柄が批判の対象となる。)
  • とはいえ,前回もそうだったが,アリストテレスは自身の術語を用いた定式化と他の論者の実際の議論とを一応切り分けているようにも見える (「「存在するものはどれだけあるのか」を探求する人々も,同様の仕方で探求している。」「争論的な議論を論駁することにも似ている ―― ちょうどメリッソスとパルメニデスの議論が両方ともそうであるのだが」)。なお Charlton によれば,第2-3章においてアリストテレス自身の観点からの議論とエレア派の観点からの議論が独立になされていると Gershenson and Greenberg (1962) が論じているらしい。