アリストテレス『自然学』A1

『自然学』をちょっとずつ読んでいくことにする。B巻までは読み切りたい。とりあえず OCT (Ross) のテクストを用い,Ross, Charlton, 内山の訳と注解を参照する。残念ながら大学図書館になく,すぐに入手できる見込みもないけれども,最近の研究書として D. Quarantotto (ed.) (2017) Aristotle's Physics Book I: A Systematic Exploration があり,これは各解釈者が章ごとに論じている本のようだ*1。(他に参照すべきテクスト・注解・論文があれば教えてください。)

初読なので全くの試訳。注と標記したものもメモ書き程度。


自然についての講義の A 巻

[184a10] それらの諸原理,諸原因あるいは諸要素があるところのことどもを知ることや理解することは,あらゆる探究に関して,それら〔諸原理・原因・要素〕を認識することから来るのだから (というのも,第一の諸原因や第一の諸原理を認識し,つまり諸要素まで認識しているとき,我々は個々の事柄を認識していると考えるからであるが),自然に関わる理解についても,まず諸原理に関する事柄を規定することを試みなければならないことは明らかである。

[184a16] 道筋は,我々によりよく認識され,より明瞭であることどもから,本性上より明瞭であり,よりよく認識されることどもへと,本性上ある。というのも,「我々に認識される」と「端的に認識される」は同じではないからである。まさにそれゆえに,この仕方で,本性上より不明瞭だが我々にとってはより明瞭なことどもから,本性上より明瞭でよりよく認識されることどもへと,進めていくことが必然である。我々にとって第一に明らかであり明瞭であるのは,いっそう混合されたものである。後に,これらを分割すると,これらから諸要素や諸原理が認識されうるようになるのである。

[184a23] それゆえ,普遍的なことどもから個別的なことどもへと進まなければならない。というのも,全体は感覚に即してよりよく知られるが,普遍は何らかの全体であるから。というのも,普遍は多数のものを部分として包含するから。この同じことを,ある仕方で,名前も説明規定に対して被っている。というのも〔名前は〕何らかの全体を無規定な仕方でも意味表示するが (例えば「円」のように),その定義は個別へと分割されるからである。また子供はまず全ての男性を父と呼び,女性を母と呼ぶが,後には人々の各々を区別するのである。

訳注

キーワードを暫定的に以下のように訳した ―― αἰτία, τὸ αἴτιον: 原因, ἀρχή: 原理, γιγνώσκω: 認識する, διορίζω: 規定する・区別する, ἐπίσταμαι: 理解する, λόγος: 説明規定,μέθοδος: 探究, πέφυκα: 本性上ある, ὁδός: 道筋, στοιχεῖον: 要素。

184a11 ὧν の先行詞について3つ選択肢がある。ここでは Ross, p.456 に従い,(1) 先行詞は省略されており εἰδέναι, ἐπίστασθαι の目的語となっている,と解する。他の選択肢としては,(2) 素直に直前の μεθόδους を先行詞と解するか,(3) a12 の ταῦτα とするか,である。(2) は原理等々が探究の (gen.) それであることになり,まずい。内山訳は (3) らしく見えるが,Ross も仄めかしているように,これは無理だと思う。

184a23 διαιροῦσι: 分詞の与格。cf. Smyth §1497.

要約

知・理解は原理の認識から生じるのだから,原理に関連する事柄を明確化する必要がある (第一段落)。探究の道筋は「我々にとって」明瞭なものから「本性上」明瞭なものへと進む (第二段落)。したがって,普遍から個別へと進む (第三段落)。

内容注

第一段落は APo. A2 71b9-15 と完全に並行する議論である。ここから「原理」の議論に進むという道筋も同章に似る。

つづく第二段落も同章 71b33-72a5 と並行している。もっとも可知性の議論は頻出ではある。Charlton, pp.51f は 「可知性が対比される認識対象は formulation か entity か」と問い,「EEde An. では formulation だが,ここや Metaph. Z では entity だ」と答えている。

他方で第三段落の論述は APo. の同箇所の主張 (および 'Aristotle's general doctrine' (Ross)) とほとんど正反対に見える。〈普遍 - 個別〉の意味が通常とずれていると考えられる。

Ross の解釈によれば,各々,一般的特徴の把握 (ある馬について,「動物である」こと) と特殊の特徴の把握 (ある馬について,「馬である」こと) であり,その事例である〈名前 - 説明規定〉の対比は〈曖昧な語句 (κύκλος) - その多様な意味〉の対比である。

Charlton は後半に反対して,一つの名前とそれが指すものの個々の特徴の区別とする。この箇所にかぎれば,こちらの方が素直な解釈だと思う。いずれにせよ,既に形成されている概念を個別の事柄に当てはめる場面が想定されている,と考えればよいだろうか。その場合,「普遍」と感覚の結びつきも,少なくとも理解可能ではある。

追記

以下の文献を見つけた。 David Konstan (1975) "A Note on Aristotle Physics 1.1," Archiv für Geschichte der Philosophie 57 (3):241-245.

*1:近年の Symposium Aristotelicum 方式と言えるだろう。それでいま気づいたのだけど,2014年開催の第20回 Symposium Aristotelicum の主題も『自然学』第1巻だったようだ。実は最近熱いトピック?