論証における公理の役割 McKirahan, Principles and Proofs #6

  • McKirahan, Richard D. Principles and Proofs: Aristotle's Theory of Demostrative Science. Princeton: Princeton University Press. 68-79.

本章では以下の箇所が検討される: A10 76a38-b2, A11 77a10-25.


「共通の」原理は A1 の排中律の例をはじめとして,A2 72a14ff., A7 75b2-3 で言及され,その本性は A10 で詳論される。

A10 76a38-b2

〔…〕知識の下にある類における限りで有用であるのだから,〔それが〕共通であるのは類比によってである。〔…〕共通であるのは例えば「等しいものから等しいものを取り去るなら,残りは等しい」ことである。これらの各々は類のうちにある限りのことに関して〔成り立てば〕十分である。というのも,これは全ての事柄について受け入れず,むしろ大きさについてのみ受け入れるのでも,算術家にとって数について同じことをもたらすから。

A11 77a10-13

A11 は証明における公理の役割を論じる。

他方,「何ものも同時に肯定されかつ否定されることが可能ではない」〔無矛盾律〕ということは,結論もそのように証示されねばならないのでなければ,論証は受け入れない。このことは,第一項が中項について真であると受け入れられ,否定することは偽であると受け入れられることによって証示される。

矛盾律が論証の前提となるのは,結論が「A は B であり,¬¬B ではない」という形式のときだけである。

A11 77a22-25

さて,「すべての事柄が肯定されるか否定されるかである」〔排中律〕ことを,不可能な事柄への論証は受け入れる。しかしつねに普遍的に受け入れるのではなく,十分な限り,つまり類について十分な限りで受け入れるのである。「類について」というのは,つまり,先にも述べたように,論証がそれについてなされている類のことである。

A巻の他の箇所における公理への言及はどれも瑣末である。

公理の本性と役割についての Ar. の見解を解釈する手がかりは乏しい。三つの例 (排中律,無矛盾律,「等しいものから等しいものを引くと残りも等しい」(第三共通概念)*1 ) の他には,これらの例の全てにも,学問の構造についての他の箇所の見解にも整合しないように見える,いくらかの主張しかない。

解釈者たちの方針は二つに分かれてきた。一方は,一部の例と主張のみに着目し,残りを無視するか,前者に無理やり適合させる。他方は Ar. の主張を補って二種類の公理があるとするが,Ar. の述べたことと自分の信念を時おり取り違えている。しかしながら,公理が論証的学問に果たす役割の観点から,行論は概ね整合的に解釈できる。

公理の最も頻繁に言及される特徴は共通性である。例示される排中律,無矛盾律,第三共通概念はいずれも複数の学問に亘る。とはいえ,排中律・無矛盾律がどこでも適用され,また思考の基本法則であって前提にはほとんど現れないのに対し,第三共通概念は量のカテゴリーにのみ適用され,前提に現れる。また両者の役割の違いは διά と ἐκ の違いによって示されると思われている。

Ar. によれば公理は (1) 論証の原理であり,(2) 「共通」である点で (3) 「固有」な原理と区別される。また (4) およそ何ごとかを学ぶ際に必須であり,(5) 全学問がそれを用いる。これら5条件のうち,「カテゴリー的」原理*2である第三共通概念は 1-3 を満たし,「超越的」原理である排中律や無矛盾律が 2-5 を満たすことは以上より明らかである。加えて排中律や無矛盾律は前提になる場合もあるので 1 も満たす。*3またカテゴリー的原理は量に関わる論証を学ぶ上では前提条件ともなる。――確かに第三共通概念は 4-5 を満たさない。だが公理について重要なのは,それが二つ以上の類において用いられることである。A2 72a14-18 は 4-5 が絶対的な条件ではないことも示唆している。*4

公理の類比的本性

だが,いかにして様々な学問が単一の原理を共有しうるのか?Ar. の答えは「類比によって (κατ' ἀναλογίαν)」というものだ。諸学は共通原理をあくまで自らの基に置かれる類についてのみ適用する。これには二つ問題がある。

  1. そうであるとすれば,共通原理をなぜそれとして固有の原理から括りだすのか?
    • 固有の原理は定義と実在主張であり,排中律・無矛盾律・第三共通概念はそのどれでもない。
    • また,共通原理は類に適用されるものであって,類についての・類に関する原理ではない。それはむしろ統制的原理,ないしは推論の認可でしかない。
  2. 単一の共通原理が類比的に用いられるのか,それとも学問ごとに類比的な複数の原理があるのか?
    • このことは伝統的には「共通原理は一義的 (univocal) か多義的 (equivocal) か」という仕方で問われてきた。Zabarella は類の多数性から多義的とした。
      • だが,例えば 'cape' という語について特定の地形と衣服が多義的であるようには,諸々の等しさが多義的であるわけではない。一義性 / 多義性の対は解釈の助けにならない。*5
    • 第三共通概念はむしろ単一の原理である。これはテクストとも整合する (A7, 10)。
      • Zabarella によれば,単一の原理が複数の類に適用されることは,(1) 量が一義的な類であること,それゆえ (2) 量についての単一の学問があること,従って (3) 算術と幾何学はその一部をなすこと,が帰結する。これらの帰結に不都合な点はあるか。
      • 1 は Cat. 6 と整合する。また,学問の基礎に置かれた類は自然の類種構造と同一視できないので,1 から 2 は帰結しない。但し Ar. は 2 を認めていたかもしれない (A5, および「普遍数学」)。最後に,3 は個別的事実を扱う算術や幾何学の自律性を損なうものではない。

公理のいわゆる統制的役割

「統制的 (regulative)」機能について吟味する。まず,διά と ἐκ の区別が論理法則と前提の区別に対応するとは限らない (A10, APr A25, Meta. B2)。すると,一見して統制的機能を論じるように見える箇所 (A10 76b14, A7 75a41-42, A10 76b10, A32 88a36-b3) も,結局は公理の前提としての機能を述べているだけだとわかる。実際また,排中律が帰謬法で用いられるのに対し,無矛盾律はめったに用いられない (77a10)。*6従って共通原理は固有原理と同じ水準にあることになる。もっとも公理が Meta. Γ が示すような統制的役割を有することを否定する根拠も別にない。

要約

〔省略。75頁〕

公理と下属する諸学

公理の教説の帰結として Ar. があまり認識していなかったのは,共通原理の一般的帰結も共通原理のクラスと同じクラスに適用されるということである。具体例としてエウクレイデス『原論』V巻で改訂されたエウドクソスの比例論が挙げられる。Ar. は共通の事柄として証示不可能な事柄のみを考えており,こうした場合を顧慮していなかった。だが,〔抽象代数における〕下属する類についての前章の議論から,こうした場合もうまく説明できる。

補遺: A11 77a10-21 と無矛盾律

〔省略。77-9頁〕

*1:原文では EQUALS と呼ばれている。

*2:但し McKirahan によれば,「カテゴリー的 categorial / 超越的 transcendental」という伝統的注解の用語法は,「原理の適用範囲は一カテゴリーに収まるか全カテゴリーに亘るかのいずれかである」と示唆する点でややミスリーディングである。Ar. はそうは述べていない (注14)。

*3:ここは本当にこれでよいのかちょっと考えたほうがよい。

*4:最後の一文はやや勇み足だろう。Ar. の理論においてではなく,せいぜい世上一般にそう考えられていることを示すに過ぎない。

*5:スコラ的枠組みに無知なのでこの辺り何とも言えない。次の記事などを読めばよいのかもしれない。 https://plato.stanford.edu/entries/analogy-medieval/

*6:結局のところこの例が「公理 = 前提」の一番強力な論拠だろう。