共通感覚の導入に向けた反物質主義的弁証 Maudlin, "De Anima III 1"

  • Maudlin, Tim (1986) "De Anima III 1: is any Sense Missing?" Phronesis 31, 51-67.

『魂について』3巻1章前半部を,Ar. 自身の主張の論証としてではなく,Ar. とエンペドクレス的物質主義との弁証法的議論として読むことを提案する論文。後者の解釈では「五感しか存在しない」という冒頭の主張に Ar. は否定的であるということになり,この箇所の意義が通常の解釈と逆転する。


De an. III.1 前半部 (424b22-425a14) 〔以下 P〕は,個別感覚 (perception) を論じる2巻と共通感覚を論じるIII.1 後半部とを架橋する。伝統的にこの箇所は,論証の詳細は不明瞭であるにせよ,その意図は明らかであると思われてきた。だが,実際には伝統的解釈は論証構造と意図の両方を捉えそこねている。

伝統的解釈

伝統的解釈は P を,

  • 形式的には,複数の文が前件をなす巨大な条件文とみなし,
  • 内容上は,五感以外の感覚の不可能性を論証していると解する。

五感以外の感覚が現にないだけでなく不可能でもあるということは,次のように論証される。

  1. 感覚を直接的感覚 (触覚,味覚) と間接的感覚 (視覚,聴覚,嗅覚) に分ける。一方は触れることによって (τῇ ἁφῇ),他方は媒体を用いて (οἷον ἀέρι καὶ ὕδατι) なされる。
  2. 次いで,各範疇内で感覚可能なものは,必ず五感のどれかによって感覚されることを示す。
    • だが,直接的感覚に関する論証は「触れる」という語の駄洒落同然である。特に触覚と味覚の二つがこの範疇に入るなら,そしてある器官 (舌以外) が一方のみ (触覚) を感覚しうるなら,全ての感覚可能なものを感覚していると言いうる根拠は薄い。
    • 間接的感覚に関する論証も劣らず難しい。(1) 元素と感覚の関係。「元素は媒体を構成する」「元素は感覚器官の素材である」という前提がある。(2) 元素の数は何らかの仕方で感覚の数を制約していることになっている。

伝統的解釈の問題点

  • 「元素の数は感覚の数を制約する」が結論であるとしよう。424b31-a3 を「複数の感覚されうるものが単一の媒体を通じて感覚されうるなら,その媒体と同質的な感覚器官は両方を感覚しうる」というものと解するなら,これは確かにこの結論を導くのに役立つ。だがここで用いられている原理は不分明・無根拠・奇妙である。
  • より深刻な問題として,元素である限りの元素が感覚において役割を果たすことを,Ar. は各所で否定している。*1

物質主義と感覚

元素が感覚の手段 (instruments) であるという考えは Ar. の枠組みに馴染まない。むしろ (特にエンペドクレスの) 物質主義的理論に結びついている。特に I.2 404b13-15*2. Ar. も感覚器官が感覚対象に似るようになるとは述べるが (418a3-6),この「似たものによって」理論 (like-by-like theory) はむしろ予め感覚対象に似ると主張する。また物質主義と「似たものによって」理論を Ar. は何度か結びつけており*3,それに依拠した見解を退けている*4。従って,III.1 に見られる見解は,Ar. 自身のものではなく,それに対抗するエンペドクレス的物質主義の理論の検討評価ではないかという仮説が成り立つ。

別の読み

Maudlin の解釈はこうである。まず,P は (1) 物質主義者の議論 [424b22-30],(2) Ar. の応答 [424b30-425a7],(3) 物質主義者の応答 [424a7-13] の三段階に分かれる。

〔1〕5つの感覚に加えてそれ以外の感覚がないことを (5つの感覚とは視覚,聴覚,嗅覚,味覚,触覚のことだが),ひとは次の論証から信じるかもしれない (might be persuaded)。つまり,もしその感覚が触覚であるところの全てのものの感覚を現に我々が有しているとすれば,そのとき*5もし何らかの感覚が欠けていれば,何らかの感覚器官も我々に欠けていることが必然である。だが,触れて感覚している限りのものどもは,我々が偶々有している触覚によって感覚可能であり,他方で媒体を通じて〔感覚し〕それを触れて〔感覚するの〕ではないものどもは,単純なものを用いて〔感覚される〕。例えば空気や水によって,ということである。*6

以上が物質主義者の論証の一まとまりをなす。今や味覚を触覚に含めるべき理由はない。直接的感覚は触覚のみであり,間接的感覚の各々は地水火風のどれかに対応する。*7勿論これは幾つかの強い前提に基づいており,次の単純な観察から退けられる。

〔2〕だが〔この説明は〕次のようなものである。すなわち,(a) もし単一の〔元素〕によって互いと類において異なる多くの感覚されうるもの〔が媒介されるなら〕,こうした〔その元素からなる〕感覚器官が両方を感覚可能であることは必然である。例えば感覚器官が空気からなり,空気は音と色との〔媒体〕であるように。他方,(b) 多く〔の元素〕が同じものの〔媒体である〕なら (例えば色が空気と水と〔の媒体であるように〕――というのも両者は透明であるから),それらの一方のみを持つ人も,両者を感覚するだろう。*8他方,単純なもののうちこの二つ,水と空気からのみ,感覚器官は成り立つ。というのも,瞳が水に属し,聴覚が空気に属し,嗅覚はこれらの一方に属するのだから。他方で火は何ものの〔素材でも〕ないか,全てに共通である。というのも,何ものも熱なしには感覚可能ではないから。また他方で,土は何ものにも属さないか,触覚のうちに固有に混合されている。

(a) と (b) は,物質主義によれば一つの元素が一つの感覚モダリティに対応しなければならない,という点を突いている。Ar. はこの前半部で元素と感覚されうるものとの関係を断った後,後半で四元素と感覚器官との関係を断つ。

ここまでは,何ら問題ない。しかし次の箇所は問題含みである。

〔3〕そのゆえに,水と空気を除けば感覚器官は何も残らないだろう。実際また,これらをいくらかの動物は有している。なので,全ての感覚が,未成熟でも障害を持つのでもない動物によって持たれている。というのも,モグラも皮膚の下に目を持っているように見えるから。従って,もしほかの何らかの物体がなく,この世界の物質のどれにも属さないような様態がなければ,いかなる感覚も欠けていないだろう。

この箇所は物質主義者による応答だが,Ar. の反論を論じておらず,精々皮相な尤もらしさしか持たない。従って Ar. がこの一節を組み込んだ理由が問題になる。

答えは,Ar. は第六感として共通感覚を導入しようとしている,ということである。(共通に感覚されうることどもを個別感覚は κατὰ συμβεβηκός にしか感覚しえず,他方それらには何か καθ' αὑτά な感覚がある (cf. 425a)。従って,五感を超えたものとして共通感覚があることになる。) この箇所で Ar. は物質主義者の効き目薄い反論を梃子に,物質主義的方法論のより根本的な批判に着手する。すなわち,固有の感覚器官を持たない共通感覚の存在を主張するのである。

*1:De an. 418b7-9, De sensu 438a13.

*2:"γαίῃ μὲν γὰρ γαῖαν ὀπώπαμεν, ὕδατι δ' ὕδωρ, / αἰθέρι δ' αἰθέρα δῖαν, ἀτὰρ πυρὶ πῦρ ἀΐδηλον, / στοργῇ δὲ στοργήν, νεῖκος δέ τε νείκεϊ λυγρῷ·" III.1 同様の道具的与格である。

*3:404b12-19, 409b25-28, 410b27-29.

*4:409b30-410a13, 416a14-19.

*5:τ' ではなく δ' を読む。一応 Ross は X 写本で δ' を報告している。

*6:Maudlin 解釈に基づき訳した。以下同様。

*7:cf. De Sensu 437a19-22, PA 647a10-14.

*8:τοῦ δι' を削除。これは複数写本に基づく。内容上何を指すことになるのかよく分からない。