トラシュマコスの混乱 Everson, "The incoherence of Thrasymachus"

  • Stephen Everson (1998) "The incoherence of Thrasymachus", Oxford Studies in Ancient Philosophy 16, 99-131.

Θ. の立場は矛盾・混乱していると論じる論文。「最初の立場は conventionalist であり,後の立場は immoralist であって,間に立場の変更がある」というところまでは自分の読解と一致しており,これを示す5-7節の論証もうまく行っている。少なくとも Θ. の立場が全体として完璧に整合的であるとは言えないと思う。

とはいえ「Θ. は単純に混乱しており,彼の議論は無価値である」という結論には同意できない。Incoherence は議論を部分的に救う余地がないことを意味しないから。また第8節の作劇上の理由付けもあまり納得行くものではない。


I

一見して如何わしい議論を魅力あるものとして提示する作業は哲学史家の腕の見せ所であり,Θ. も精力的に擁護されてきた。だが以下では,「Θ. の議論は一貫しておらず,Θ. の擁護はかえって第1巻の行論の理解を妨げる。Θ. の挑戦の失敗は Resp. の重要性を損なわない」と論じられる。

II

Θ. の正義の最初の特徴付けが直感に反するものであることに,現代の注釈者は十分に注意していない。Θ. がこの特徴づけに説明を与えるのは 338d-e. においてである。但しこの説明も正義と法律への服従の関係を説明しない点で不十分であり,Σ. の質問への Θ. の回答 (339c) を俟って初めて説明の筋が通る。

III

Θ. の議論が定義から始まっているのか,それとも定義に終わっているのか,という点で解釈は分かれている (Henderson, Irwin, Annas ↔ Hourani)。もとより Θ. が定義の形式的性質について熟慮しているとは思われない。問うべきはむしろ,「〈正義はより強い者の利益である〉と知っている者は正義の本性を理解している」と Θ. が考えているか否かということである。

正義の定義の候補として,次の三つが挙げられる。どれも一般性を有する点で定義の資格はある。

  1. 正義とはより強い者の利益である。(338c)
  2. 正義とは現実の支配者の利益である。(338e)
  3. 正義とは法律への服従である。(339c)

ところで,定義は一つだけとは限らない。適切な制約のもとでは,異なる定義が実質的に同じことを述べていると解釈可能だからである。そうした同一視がもっともうまく行きそうなのは,1 と 2 の場合である。2 の方が意味が狭いので,1 は 2 の言い換えと見なすのが妥当である。Hourani の「総合的命題は定義たりえない」という主張は誤っている。定義はしばしばアポステリオリだからである。

だが 2 はあまりに尤もらしくなく,Θ. も特にこのことの論拠を与えていない。それゆえ 3 を定義とするほうが尤もらしい。

IV

だが Leg. IV 714b-d を考慮に入れるとやや話が込み入ってくる。ここでは「πολιτεία の利益」が本性上定義であるとされる。*1この箇所は慣例主義的解釈を揺るがす。他方で,この箇所は Resp. の Θ. の説明と完全にパラレルであるわけでもない。Leg. では πολιτεία の利益が第一義的であり,それゆえ支配者のそれは二義的である。*2Θ. はあるいは「強者の利益」という有名な結論を,その内実を理解せずに用いていた,とも推測できる。

V

「正義は他人の利益である」として僭主の不正を称えるに及んで,慣例主義的な以前の主張との矛盾は明白になる。

VI

それにも拘らず,解釈者の大半は Θ. の整合性を主張する。Annas や Kerferd は「最初の議論は支配される者に範囲を限定したテーゼだ」として不整合を解消しようとする。だが,この制約だけでは矛盾は解消されない。僭主に迫害されている者を別の者が助けたとき,これは正義か否か,を考えたとき,最初の議論は不道徳主義と矛盾することになる。他方で仮にこれを受けて受益者を支配者に限定すると,テーゼはまったく自明の理となってしまう。従って不道徳主義解釈は成り立たない。

さらに,「正義は他人の利益である」が Θ. の本当の主張だった (Annas, 46) とすれば,Θ. は「法への服従」という Σ. の定式化を直ちに退けることもできたはずである。ここにも矛盾がある。

VII

他方,「支配者たる限りでの支配者」の議論 (340e-341a) は慣例主義的解釈の反証となる。この点 Kerferd は正しい。他方 Kerferd はこの時点で Θ. が意見を変更していることを見逃している (cf. 339c)。結論として, Θ. の議論は不整合である。

VIII

Θ. が混乱しているなら,そのように Θ. が描写される理由が説明されなければならない。思うにこの描写は,従来のソクラテス的方法がうまくいかないことを示唆する方策である。誰かの信念に探究の焦点を合わせると,探究は当人の議論を追う能力に依存することになる。それゆえプラトンは,第2巻以降では,従順で受動的な態度を示す対話者を Σ. に与えたのである。

*1:この前半部分を Hourani は引用していなかった。やや都合のよすぎる取り出し方だったのかもしれない。

*2:ここは前後の文脈を踏まえて読まないと分からない。引用箇所だけからは必ずしもそうは読めない。