『メタフュシカ』A6のプラトン像 Steel, "Plato as seen by Aristotle"

  • Carlos Steel (2012) "Plato as seen by Aristole" in Carlos Steel (ed.) Aristotle's Metaphysics Alpha: Symposium Aristotelicum. Oxford: Oxford University Press. 167-200.

『メタフュシカ』A6 (プラトンの教説を扱う章) について幾つかの問題を提起する論文。*1特に個々の記述が何を素材としどう加工されたかということが論じられる。基本的には対話篇が情報源であると想定する。


1. プラトンの「読者」としてのアリストテレス

A6 の記述が与えるプラトンの印象は,我々が対話篇から受け取る印象と非常に違っている。前者のプラトンは,深遠かつ思弁的で,ピュタゴラス派的な数の狂信者である。アリストテレスは自らの叙述の枠にプラトンを押し込めているのかとも疑われる。だが彼は,プラトンの直弟子であり,プラトンの対話篇の最初の有名な解釈者でもある。対話篇のプラトンを守る目的で彼の証言を無下に退けるわけにはいかない。

アリストテレスは数多くの箇所でプラトンの対話篇に言及している (cf. Bonitz, sub verbo 'Platon', 598a9-99b38)。彼が注意深い (attentive) 読者であったことは間違いないが,時折皮相な読みを示しているようにも見える。例えば Meteor. B2, 355b32f. の『パイドン』批判はミュートスと論証を区別していない。さらに驚くべきことに,対話篇の解釈――例えば『ティマイオス』の世界創造の物語が「歴史的」なものか,教育用の虚構かといったこと――について,アリストテレスはしばしば内部情報を持っていないように見える。あたかも対話篇の著者と特権的な関係を持たなかったかのようである。

最後の仮説は信じがたく聞こえるかもしれない。なるほどアリストテレスは長年に亘ってアカデメイアのメンバーだったのであり,プラトンの「講義」にも出席したかもしれない。彼は時折「不文の教説」にも言及している。――だがそうした言及はつねに,「いわゆる不文の教説において (ἐν τοῖς λεγομένοις ἀγράφοις δόγμασι)」のように間接的であることに注意したい。「不文の教説」と呼ばれるものの書かれたヴァージョンが存在し,アカデメイアに流通していた,という推測も成り立つ。

それゆえ,対話篇にない教説にアリストテレスがアクセスできた可能性を否定はしないにせよ,アリストテレスのテクストから「不文の教説」を復元する試みは疑わしい。ほとんどの場合,アリストテレスプラトン哲学について述べることは,彼自身の対話篇の読解から来ているのだ。

2. クラテュロスの影響?

  • 987a32-33. cf. M4 1078b13-17, M9 1089a37-b2.

恐らくこの箇所は『クラテュロス』篇に基づいていると思われる。知識の否定はヘラクレイトスの教説より急進的である (実際ヘラクレイトス自身はロゴスの可能性を否定せず,むしろそれを探求している)。こうした急進的な流動説がプラトンの若い頃のアテナイに流通していた可能性もある。『クラテュロス』を読んだアリストテレスはこの箇所に見られるような推察をしたのだろう。プラトン自身との対話に基づく伝記的事実であると考える必要はない。

3. ソクラテスのアプローチを急進化させるプラトン: 感覚物から離在するイデア

  • 987b1-11. cf. M4 1078b17-34.

ソクラテスが倫理的な事柄の探究によってイデア論の展開を促した,ということは,対話篇から容易に引き出せる結論である。他方,M4 の対応箇所や M9 1086b2-5 ではソクラテスが普遍的なものを離在するものとしなかったことが明言されている。これは対話篇からは得られない「歴史的ソクラテス」の情報である。プラトンから聞いたか,その他のソクラテス文学と比較して結論づけたか,であろう。

プラトンイデアを「離在」(separate) させたか否か,どういう意味でそうしたか,は論争がある。プラトン自身はイデアについて離在という語を用いていない (魂の身体からの離在を述べるのみである)。だが『パルメニデス』における離在説の批判は,プラトンの議論から離在説が導かれうることを示している。

なお "κατὰ μέθεξιν γὰρ εἶναι τὰ πολλὰ τῶν συνωνύμων [ὁμώνυμα] τοῖς εἴδεσιν" という一節は問題含みである。

4. ピュタゴラスの徒プラトン

  • 987a29-31, b10-14.

他の箇所同様,tōn italikōn (987a31) はピュタゴラス派のみを指している。プラトン独自の貢献 (idia) とされるのはイデアの教説のことに違いないが,他方でアリストテレスイデア論ピュタゴラス派の教説の類似性を主張している。(ミーメーシスからメテクシスへと)「名前を変えて (tounoma metabalōn)」という表現にも驚かされる。そもそも事実としてピュタゴラス派はおそらく一度もミーメーシスという言葉を使っていない。ピュタゴラス派とプラトンを分ける要素としてアリストテレスは次の三点を挙げている (987a25-29):

  1. 数の生成についての説明。アペイロンの代わりにプラトンは「大と小」を挙げる。
  2. 数と事物の関係の説明。ピュタゴラスは数を事物そのものとみなし,プラトンは数を事物から離在するとした。
  3. プラトンイデアを新たに導入する。

3 について,プラトンイデアを以て数に代えたのか,イデアを数と同一視したのか,あるいはその上ないし下に位置づけたのか,が問題になる。また 2 について,離在を前提すると,分有と模倣はかなり異なったものとなる,という問題が生じる。

プラトンの教説のピュタゴラス派への依拠を強調するのは A6 の特徴である。この箇所の「プラトンピュタゴラス化」を (Cherniss のように) 問題にするとすれば,「ピュタゴラス派のプラトン化」にも同様に注意を払う必要がある。

5. 中間者としての数学的対象の教説

  • 987b14-18.

数学的対象を感覚対象とイデアの中間者とする教説は Z2 1028b19-21 でもプラトンに帰されている。アリストテレス自身はこれに批判的である (B2 997a34-8a39)。新プラトン主義の注釈者たちはこれを『ポリテイア』6-7巻と結びつけたが,Ross が指摘するように,ここでは認識の仕方が異なると述べられているだけで,異なるクラスをなすと明示的に述べられているわけではない。とはいえ『ポリテイア』ではまた,異なる認識能力は異なるクラスの対象に関係する,という一般原則が定式化されている。ここを突いてアリストテレスプラトンの教説を崩していると考えられる。

6. 形相と数

  • 987b18-24.

ここでは eidēarithmoi という語が互換的に用いられ,ta eidē einai tous arithmous という同格さえ登場する。ここには削除や付加など多くの提案がなされてきた。いずれにせよ,全注釈者同様,ここでの「数」は何らかの「イデア数」と解するほかない。Ross はこれも「未公刊の講義」から採られたものとみなすが,おそらく『パイドン』101b-d におけるような議論の含意を明示しただけであろう。

もっとも,プラトン全てのイデアイデア数と同一視したとは信じがたい。M4 ではイデアと数が元々 (eks arkēs) 無関係であったと述べられている。M4 の後に A6 が成立したにせよ (Cherniss),その逆にせよ (Steel),「数=イデア」という主張をプラトンに帰する A6 の記述が非歴史的虚構であるとは言っていいだろう。

7. 一,大と小

  • 987b21-88a7.

(1) アペイロン (大と小) の原理は初期アカデメイアにおける数の構成についての思弁に一定の役割を果たし,プラトンも受け入れていたと思われる。(2)『自然学』Δ2 209b11ff. から明らかなように,アリストテレスは『ティマイオス』の受容者を感覚世界におけるこの原理の類比物と見なしていた。(3)アリストテレスはまた,コーラを彼の質料因の先行者とも見ていた (がそれを場所と区別しなかったことについてプラトンを批判した)。(4) 「大と小」原理と受容者との類比に気づいたために,アリストテレスは,プラトンがこれらの二重の無限を「質料因」として導入したと結論した。

ただし最も問題含みなのは,「プラトンによれば,単なる類比ではなく,同一性がある」とアリストテレスが主張している点である。

8. 結論

  • 988a7-17.

988a11-12 にはテクスト上の問題がある。

アレクサンドロス以来,プラトンの教説を質料因と形相因にのみ還元することの不公正さは指摘されてきた: デミウルゴスや善のイデアはどうなるのか。だが,アリストテレスデミウルゴスを不適切な詩的隠喩としか見ていなかったし,また EN で述べられるように,善のイデアは究極目的たりえないのである。

*1:なお本書所収の論考はすべてランニング・コメンタリー形式を取っている。

*2:cf. M4 1078b13-17, M9 1089a37-b2.