Evans, Aristotle's Concept of Dialectic #2

  • J. D. G. Evans, Aristotle's Concept of Dialectic. Cambridge: Cambridge University Press. 7-17.
    1. Introduction
    2. Dialectic and the works of Aristotle
      • Metaphysics B and Γ: the problem of dialectic and its resolution (いまここ)

『メタフュシカ』はどこもかしこも難解という先入観があって邦訳でさえあまり真面目に読んでこなかったのだけど――かつその先入観自体は恐らく間違っていないのだけど――それでも読まないのはまずい,という当たり前のことを思い知らされている。


アリストテレスがなした最大の知的貢献の一つは,様々な専門的知識の間に境界線を引きうることの発見だった。プラトンの『ポリテイア』のみならず後期の『ピレボス』も,ディアレクティケーを普遍性,純粋性,正確さによって特徴づけていたのだ。このプラトンの態度は,多より一を好む彼の傾向を反映している。こうした傾向をアリストテレスは批判したが,なかでも科学の単一性 (unity) への批判こそ,アリストテレス自身の哲学的方法の特徴を形作った。

問答の方法によって,どの程度の知的進歩が見込めるだろうか? プラトンにあっては知的進歩の可能性は自明であった。アリストテレスは,ディアレクティケーの教育的効果は認めるが,知的進歩は保証されないと見なす。彼は端的によく知られるものと我々にとってよく知られるものとを区別する。ある説明によってある人の理解が進むとしても,それは真に説明的であるとは限らない (not genuinely explanatory)。それゆえこの問いは,ディアレクティケーの本性と価値に応じて,両義的である。

『メタフュシカ』B,Γ巻: ディアレクティケーの問題とその解決

Metaph. B1, 995b18-27 は次のようなアポリアを提起する。

[...] 果たして我々の研究はウーシアーのみを対象とするのであるか,あるいはさらにウーシアーに自体的に付帯する諸属性をも対象とするのか,についても考察されねばならない。なお,これに加うるに,同とか異とか等とか不等とか反対性とかについても,またより先とかより後とかについても,その他あのディアレクティコスたちがエンドクサのみを前提としてその詮議につとめているところのこうしたものについても,そもそもこれらすべてについて研究するのは誰のすることなのか,なおまた,これらのそれぞれに自体的に付帯する諸属性についても,また,これらのそれぞれのなにであるかについてのみではなく,それらの一つにはそれぞれただ一つの反対があるだけなのかどうかについても。*1

これを単一のアポリアと見る Ross の解釈は支持できない。ディアレクティコスは自体的に付帯する諸属性は問わないからである。この区別は B2, 997a25-34 においても続いている。

しかしさらに,果してこの我々の研究はただウーシアーのみを対象とするのであるか,あるいはさらにウーシアーに付帯する諸属性をも対象とするのか。というのは,たとえば立体をかりに或る種のウーシアーであるとし,同様にまた線や平面をもそうであるとすれば,この場合こうした自体をしるとともにこれら各々の類に付帯する諸属性――現に数学的諸学で示されているところの諸属性――をも知るのは,果して一つの学のすることかあるいは異なる学のすることか,という意味である。けだし,もし同じ学のすることであるとすれば,ウーシアーについての学もまた或る論証的な学であるということになるだろう,しかるに,事物のなにであるかについては論証はありえないと考えられているからである。だがしかし,異なる学のすることであるとすれば,ウーシアーについてそれに付帯する諸属性を研究するのはなにであろうか。これに答えることは,けだしきわめて困難である。*2

『分析論後書』によれば,(a) 基体とその属性とは同一の学問に属する (75b1),(b) 論証 (apodeixis) は何らの本性 (ti esti) をも定立しない (92b35-8)。しかるに,(i) a より,ウーシアーの学はウーシアーの属性を研究しなければならないが,(ii) b より,ウーシアーの学問はなく,a より,その属性についての学問もない。Ross はこの困難を過小評価している。

B1-2 のアポリアの解決は Γ2 で与えられる。

明らかにそれゆえ,同じ一つの学が,ウーシアーについてのみでなく,これらのものどもについても説明を与えうべきである,――これは『難問の巻』にあげられた難問の一つである,――そして哲学者たるものはこれらすべてを研究しうべきである。もしこのことが哲学者のなすべきことでないとするならば,「ソクラテスと座せるソクラテスとは同じであるか」とか,あるいは「一つのものには反対のものは一つか」とか,あるいは「反対とは何であるか」とか,あるいは「それにはどれほど多くの意味があるか」とか,その他このような問題を探求するのはそもそも誰のすることであろうか。ところで,これらのものどもは,一としての一や存在としての存在の自体的属性であって,決して数としての存在や線としての存在やこれらに付帯する諸属性を認識することは明らかにこの学のなすべきことである。そして,この限りでは,これら諸属性を詮索している人々も,知恵を愛求する者〔φιλοσοφοῦντες〕たる点ではあやまってはいないが,かれらのあやまっているのは,ウーシアーがこれより先であるのに,このことについてなんの理解をも持っていない点にある。――というのは,あたかも数には数としての数に特有の属性,たとえば奇数性と偶数性,通約性と等性,過大と過小などがあり,そしてこれらはそれぞれ,これら自体においてあるいは相互の関係において,いずれも数に属している。同様にまた,立体にも,不動なものにも,運動するものにも,重さのないものにもあるものにも,それぞれ異なる特有性がある,あたかもそのように,存在としての存在にもこれに特有の幾つかの属性がある。そして哲学者は,まさにこれらについてその真実を探究すべきだからである。――それを証拠立てるものはこれだ。あのディアレクティコスたちとソフィストたちとは,確かにどちらも哲学者と同じ姿を装っている。すなわち,ソフィスティケーは見かけだけでは知恵であるし,またディアレクティコスたちはあらゆる物事を問答し〔διαλέγονται〕,そしてそのすべてに共通しているのは存在であるが,かれらがこのような問題を問答するのは明らかにこれらが哲学に固有の問題だからである。すなわちこのように,ソフィスティケーもディアレクティケーも,ともに哲学と同じ類の問題に関わっているからであるが,しかし哲学は,その知的能力の用い方においてはディアレクティケーと異なり,またソフィスティケーとはその生活意図において異なっている。哲学がそれの知識を得ようとしている事柄に対してディアレクティケーはただ試論的・非難的〔πειραστικὴ / tentative (Evans)〕であり,ソフィスティケーは見かけは知恵に似ていて実は非なるものである。*3

哲学とディアレクティケーはともに,在るもの全てに関わる。他方で,(1) ディアレクティケーのもたらす結果は試論的 (tentative) であり (主張を消極的に否定しうるのみであり),哲学のそれは学問的 (scientific) である。(2) ウーシアーについての知識なくしては在るものの自体的な属性について知ることもできない。ここで「ディアレクティコスたち」について述べられることは,単に特定の人々について言われているわけではなく,ディアレクティケーそのものについても当てはまると考えてよい (cf. Metaph. K3, 1061b7-10)。

Γ2 では,(a) ディアレクティコスの活動は (彼自身が考えるのとは異なり) 哲学者のそれには達しない。(b) 他方,ディアレクティコスが関わることは,哲学者が関わることの一部分をなしている。――有用だが誤りを含み,全体としては受け入れがたいものとして先行学説を提示するこの方法は,アリストテレスがさまざまなコンテクストで行うやり方である。この議論は,要するに,ディアレクティケーは (哲学と範囲を等しくするがゆえに誤解されがちだが) 非学問的な営みである,と述べている。ディアレクティケーの適切な実践は学問的存在論 (scienfitic ontology) の適切な実践に還元される,と見て,両者の区別を曖昧にするのは誤った解釈である。

他方でこの箇所は,ディアレクティコスたちはそのウーシアー理解に関して改善の余地がある,ということも示唆している。この箇所のウーシアーという語は 'substance' という意味に解されるべきではない。むしろアリストテレスにおいて,この語は第一義的には 'reality' ないし 'real being' であり,ここでもそうである。ウーシアー = reality が substance であるという理解をディアレクティコスは欠いている,というのが,ここでの主張である。

Γ2 は B2 のアポリアを直接解決してはいない。むしろ Γ2 では,論証モデルは知的活動が学問的であることの必要条件であるという発送を暗黙のうちに退けている,と思われる。Γ3-4 では明示的にそう論じられる。ここからはウーシアー概念が『分析論後書』から Γ 巻までの間に洗練されたという印象を受ける。

ともあれ,ディアレクティケーはその存在論的中立性のゆえに学問たりえない,と以上の箇所では論じられていると言えよう。

*1:出隆訳を行論に沿って一部改めた (原文をきちんと吟味してはいない)。cf. "[...] καὶ πότερον περὶ τὰς οὐσίας ἡ θεωρία μόνον ἐστὶν ἢ καὶ περὶ τὰ συμβεβηκότα καθ᾽ αὑτὰ ταῖς οὐσίαις, πρὸς δὲ τούτοις περὶ ταὐτοῦ καὶ ἑτέρου καὶ ὁμοίου καὶ ἀνομοίου καὶ ἐναντιότητος, καὶ περὶ προτέρου καὶ ὑστέρου καὶ τῶν ἄλλων ἁπάντων τῶν τοιούτων περὶ ὅσων οἱ διαλεκτικοὶ πειρῶνται σκοπεῖν ἐκ τῶν ἐνδόξων μόνων ποιούμενοι τὴν σκέψιν, τίνος ἐστὶ θεωρῆσαι περὶ πάντων: ἔτι δὲ τούτοις αὐτοῖς ὅσα καθ᾽ αὑτὰ συμβέβηκεν, καὶ μὴ μόνον τί ἐστι τούτων ἕκαστον ἀλλὰ καὶ ἆρα ἓν ἑνὶ ἐναντίον: [...]" (Ross 1924. Perseus Collection から引用した。以下同様。)

*2:ditto. "ἔτι δὲ πότερον περὶ τὰς οὐσίας μόνον ἡ θεωρία ἐστὶν ἢ καὶ περὶ τὰ συμβεβηκότα ταύταις; λέγω δ᾽ οἷον, εἰ τὸ στερεὸν οὐσία τίς ἐστι καὶ γραμμαὶ καὶ ἐπίπεδα, πότερον τῆς αὐτῆς ταῦτα γνωρίζειν ἐστὶν ἐπιστήμης καὶ τὰ συμβεβηκότα περὶ ἕκαστον γένος περὶ ὧν αἱ μαθηματικαὶ δεικνύουσιν, ἢ ἄλλης. εἰ μὲν γὰρ τῆς αὐτῆς, ἀποδεικτική τις ἂν εἴη καὶ ἡ τῆς οὐσίας, οὐ δοκεῖ δὲ τοῦ τί ἐστιν ἀπόδειξις εἶναι: εἰ δ᾽ ἑτέρας, τίς ἔσται ἡ θεωροῦσα περὶ τὴν οὐσίαν τὰ συμβεβηκότα; τοῦτο γὰρ ἀποδοῦναι παγχάλεπον."

*3:ditto. "φανερὸν οὖν ὅπερ ἐν ταῖς ἀπορίαις ἐλέχθη ὅτι μιᾶς περὶ τούτων καὶ τῆς οὐσίας ἐστὶ λόγον ἔχειν (τοῦτο δ᾽ ἦν ἓν τῶν ἐν τοῖς ἀπορήμασιν), καὶ ἔστι τοῦ φιλοσόφου περὶ πάντων δύνασθαι θεωρεῖν. εἰ γὰρ μὴ τοῦ φιλοσόφου, τίς ἔσται ὁ ἐπισκεψόμενος εἰ ταὐτὸ Σωκράτης καὶ Σωκράτης καθήμενος, ἢ εἰ ἓν ἑνὶ ἐναντίον, ἢ τί ἐστι τὸ ἐναντίον ἢ ποσαχῶς λέγεται; ὁμοίως δὲ καὶ περὶ τῶν ἄλλων τῶν τοιούτων. ἐπεὶ οὖν τοῦ ἑνὸς ᾗ ἓν καὶ τοῦ ὄντος ᾗ ὂν ταῦτα καθ᾽ αὑτά ἐστι πάθη, ἀλλ᾽ οὐχ ᾗ ἀριθμοὶ ἢ γραμμαὶ ἢ πῦρ, δῆλον ὡς ἐκείνης τῆς ἐπιστήμης καὶ τί ἐστι γνωρίσαι καὶ τὰ συμβεβηκότ᾽ αὐτοῖς. καὶ οὐ ταύτῃ ἁμαρτάνουσιν οἱ περὶ αὐτῶν σκοπούμενοι ὡς οὐ φιλοσοφοῦντες, ἀλλ᾽ ὅτι πρότερον ἡ οὐσία, περὶ ἧς οὐθὲν ἐπαΐουσιν, ἐπεὶ ὥσπερ ἔστι καὶ ἀριθμοῦ ᾗ ἀριθμὸς ἴδια πάθη, οἷον περιττότης ἀρτιότης, συμμετρία ἰσότης, ὑπεροχὴ ἔλλειψις, καὶ ταῦτα καὶ καθ᾽ αὑτοὺς καὶ πρὸς ἀλλήλους ὑπάρχει τοῖς ἀριθμοῖς (ὁμοίως δὲ καὶ στερεῷ καὶ ἀκινήτῳ καὶ κινουμένῳ ἀβαρεῖ τε καὶ βάρος ἔχοντι ἔστιν ἕτερα ἴδια), οὕτω καὶ τῷ ὄντι ᾗ ὂν ἔστι τινὰ ἴδια, καὶ ταῦτ᾽ ἐστὶ περὶ ὧν τοῦ φιλοσόφου ἐπισκέψασθαι τὸ ἀληθές. σημεῖον δέ: οἱ γὰρ διαλεκτικοὶ καὶ σοφισταὶ τὸ αὐτὸ μὲν ὑποδύονται σχῆμα τῷ φιλοσόφῳ: ἡ γὰρ σοφιστικὴ φαινομένη μόνον σοφία ἐστί, καὶ οἱ διαλεκτικοὶ διαλέγονται περὶ ἁπάντων, κοινὸν δὲ πᾶσι τὸ ὄν ἐστιν, διαλέγονται δὲ περὶ τούτων δῆλον ὅτι διὰ τὸ τῆς φιλοσοφίας ταῦτα εἶναι οἰκεῖα. περὶ μὲν γὰρ τὸ αὐτὸ γένος στρέφεται ἡ σοφιστικὴ καὶ ἡ διαλεκτικὴ τῇ φιλοσοφίᾳ, ἀλλὰ διαφέρει τῆς μὲν τῷ τρόπῳ τῆς δυνάμεως, τῆς δὲ τοῦ βίου τῇ προαιρέσει: ἔστι δὲ ἡ διαλεκτικὴ πειραστικὴ περὶ ὧν ἡ φιλοσοφία γνωριστική, ἡ δὲ σοφιστικὴ φαινομένη, οὖσα δ᾽ οὔ." ソフィストという第三項への言及も含めて,かなり興味深い箇所だと思われる。