志向性概念の歴史性と二つの方向性 中畑正志『魂の変容』第5章

  • 中畑正志『魂の変容:心的基礎概念の歴史的構成』,岩波書店,2011年,169-238頁。

「魂」にかかわる諸概念を論じる前掲書から「志向性」概念に関する部分を読む。本章は特に object を扱う第2章や想像を扱う第4章とも関連する。

概要

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志向性は,事典的な説明によれば,心の状態の持つ〈何かにかかわる〉ないし〈何かに向かっている〉という特徴であり,スコラの intentio 概念をブレンターノが復活させたものである。これは心的事象全般に特有のものとされ,そのため自然主義の主要な論題ともなった。

英語圏の哲学に志向性概念を導入したのはチザムである。彼は,文 S の志向性を,――単純化して述べれば――次の三条件の選言によって定義する。

  1. S は,単称名辞(singular term)を含むが,その指示対象が存在することを含意しない。
  2. S は,真理値とかかわりのない文を含んでいる。
  3. S の含む名辞や記述を,真理値*1を保持したまま,それと同一の指示対象をもつ他の名辞や記述と代替することができない。(175頁)

以上の基準に基づいて,チザムは,心的でない現象の記述には志向的な文は不要であり,他方で心的現象の記述は,志向的な文か,新たな名辞を必要とする,と主張する。換言すれば,心的現象にのみ志向性が認められる(所謂「ブレンターノのテーゼ」)。このテーゼを用いて,チザムは,意味や心に関する自然主義的説明を批判する。一方これに対してクワインは,志向的概念を単なる「物語的イディオム」と見なす立場を取る。この両極の立場のあいだで,志向性の現代的な問題圏が構成されてきた。

だがこうした議論状況の外側で,議論のいくつかの前提自体に疑義が呈されてもいる。第一に,心的なものが志向的であるとは限らない(e.g. 痛み,漠然とした不安)。この論点は心の概念の統一性そのものを掘り崩しうる。第二に,言語の志向性が心の志向性に依存する,というチザムの想定は,自明のものではない。――ところで,こうした諸前提はある程度,志向性概念の歴史的生成過程に由来する。またその一方で,別の思考の方向性も,過去には存在したのである。こうした次第を,歴史をたどりつつ確かめていく。

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ブレンターノは「志向的内在」をさまざまな表現によって言い換えているが,それらの内には二つの特質が混在している。一つは「内在性」,もう一つは「方向性」「指示性」である。シュピーゲルベルクは後者をブレンターノの独創と見なした。また,チザムの解釈は前者に,マカリスターの解釈は後者に重心を置いている,と言える。とはいえこの概念について,ブレンターノ自身は,すでにアリストテレスが次のような見解を通じて実質的に先取りしていた,と考えていた。

  1. 感覚されたもの(das Empfundene)は,感覚されたものであるかぎりで,感覚する主体の内にある。
  2. 感覚は,感覚されたもの(dae Empfundene)を,質料(素材)抜きで受けとる。
  3. 思考されたもの(das Gedachte)は思考するものの内にある。(194頁,cf. Brentano 1874/1955, 125 Anm.)

このうち b の特徴づけ――質料抜きで形相を受けとる――に注目すれば,チザムのように「志向的内在」を特殊な存在様態と見るのは疑わしい解釈であるように思われる(リチャードソン)。

とはいえ,ことはそれほど単純ではない。例えばブレンターノは(自分たち自身が冷たくなることなく)「冷たさが対象的に,すなわち認識されたものとしてわれわれの内に存在する(das Kälte objectiv, d. h. als Erkanntes in uns existiert)」(196頁)という例を用いて志向的内在を説明する。彼はこの objectiv という語をスコラ的に理解すると述べるが,別のところではそのデカルト的背景を強調している。そしてもちろんデカルト的な思考の方向はアリストテレスのそれの対蹠点に位置する。実際,ブレンターノの「心的現象」はその統一性においてデカルト的な枠組みにより親近的である。また表象概念も,その基層的な位置付けにおいて,アリストテレスのファンタシアーないしファンタスマより,むしろデカルトの観念に近い。

ブレンターノとアリストテレスとの分水嶺は,先ほどの b に見いだせる。そこで das Empfundene と訳されていたのはアリストテレスの τὸ αἰσθητόν (εἶδος) *2であり,これはむしろ「感覚されうるもの(形相)」と訳されるべき語である。アリストテレスは感覚内容を感覚対象の因果的な力の発現とみなしていた。要するに,アリストテレスはなんら「内在」的な対象を想定しなかったのだ。

だが一方で,こうしたアリストテレス解釈は,決してブレンターノの恣意によるものではなかった。むしろそれはトマスやアルベルトゥス・マグヌスを含む強力なスコラ的伝統に依拠するものであり,アヴェロエスから古くは新プラトン主義にまで遡ることができる。

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チャーマーズやブロックは,心の志向的側面と現象的側面とを区別した上で,後者を心的現象の本質と考え,「ハード・プロブレム」を問う。他方でこの区別に反対する論者もいる。ブレンターノ自身はと言えば,明らかに,志向的内在の概念と意識(Bewußtsein)の概念を不可分一体のものと見なした。つまり,一方ではデカルト的伝統における「意識中心主義」に影響されつつも,他方では形相の受容というアリストテレス的な見方を継承しようと欲した。

ところでしかし,思考一般について,感覚知覚のごとき原初的志向性があるわけではない。例えば,私たちは2400年前の人物であるソクラテスについて考えることができる。志向性のこうした局面から,この概念とアリストテレス思想との関係を,ブレンターノとは別の仕方でたどりなおすことが可能である。

intentio はアラビア語 ma‘nā ないし ma‘qūl の訳語であり,これはさらにアリストテレス『命題論』16a3-11の νόημα の訳に充てられている。この冒頭部分は,従来,(ノエーマが「魂の受動様態」(τὰ ἐν τῇ ψυχῇ παθήματα)と換言されていることを根拠にして)心理主義的な言語論と解されてきた。だがそれは誤りである。というのも,ここでアリストテレスがノエーマに言及するのは,ファンタシアーとの相違という『魂について』の論点に関連してのことだからだ。

志向性に関するブレンターノやチザムの議論における前述の二つの方向性――「内在」あるいは非実在の対象との関係,および「参照」あるいは〈誤る〉ことの可能性――は,各々,ファンタシアーとノエーマの果たす役割に類比的である。

アリストテレスは別の箇所で,ドクサとロゴスとを関連付け,〈信ずる〉ことが〈説得される〉ことを伴うと述べる。*3またさらに別の箇所では,(世界が可知的であることの根拠である)νοητόν が言語を介して受け入れられる次第を記述している。*4

ここに示唆されているのは,あえて言えば,言語の志向性が心の志向性を形成する,という見方である。そうした志向性の理解は,現代の一部の哲学者の主張とも親和的でもある。例えば,セラーズは,言語の志向性の理解が思考のそれの理解に先行する,と主張する。またハイデガーは,「ロゴスは何かについてのロゴスである」という『ソフィスト』篇における見解を手がかりに,表象連合の客観的妥当性という問題設定を拒否する。

感想

ブレンターノの「志向的内在」概念にひそむ二つの要素の各々を,アリストテレス‐スコラと現代という双方向に展開するという行き方が興味深い。全篇を通じて,ある現代的な問題設定の中心概念について歴史的に溯源し,その原点から捉え返す,という方法が取られているが,本章はとくにクリアーな図式が打ち出されている。

気になった点としては,アリストテレス的 / デカルト的,という二項対立がどこまで成り立つのか,という点。特に第三省察をまじめに読む必要を感じる。あと,第7節において intentio から νόημα へと遡ったのちブレンターノ‐チザムの第二の要素と再び関連づける部分は,exciting ではある一方,議論がどこまで哲学的に成り立っているのか,まだ追いきれていない。このあたりは現代的な議論についてもう少し勉強してから再読したい。

*1:ここは正確には真理条件か。

*2:De an. II 12 424a17-17, III 2 425b23-24.

*3:De an. III 3 428a19-24.

*4:Sens. 437a2-15; De an. III 429a15-16, 27-30, 431b5, 432a2-5