ブレンターノの判断論 Brandl, "Brentano's Theory of Judgement" #2

標記の SEP の記事を読む。前半も参照。

5 実在テーゼ

単一の判断は「Aが実在する / しない」という形で表現できる。これがブレンターノの第三のテーゼである。フレーゲの判断論においては、判断の内容を表すためには完全な文が必要であり、その受け入れは追加の記号(例えば判断の棒)を要する。反対にブレンターノにとっては、判断の内容は項(term)によって表現でき、完全な文は判断の内容と質の両方を表現する。「実在する(exist)」は何も表示(denote)しない――それは自立語的(categorematic)ではなく共義的(syncategorematic)な表現であり、もっぱら判断の質を表現する。

第2節で述べたように、「Aは実在する」という肯定的判断は “A+”, 「Aは実在しない」という否定的判断は “A-” と表現される。以上に述べた理由から、"A+“ は「Aが実在するということが受け入れられる」と解されてはならない。同じ理由からプライアーが示唆するように「何かがAである」と読むのも誤りである。「実在」を二階の述語として扱うだけでは、それが内容に寄与するという誤解を避けられない。これと同様に、"A-” を「Aの存在が棄却される」と読むのも誤りである。両者は端的に「Aが実在する / しない」、あるいは「Aが受け入れられる / 棄却される」と読まれるべきである。

この理論の弱点は、"A+“ などが言及の文脈に置かれるときの説明が難しいことにある。ギーチが批判するように、「実在する」が完全な文の部分であり、完全な文が条件文の部分として現われうる以上、「実在する」は判断の内容に寄与せざるを得ない。もっとも、ブレンターノが指摘するように、この点はパラフレーズで対処できる。すなわち、「A が実在するなら B は実在しない」は「B とともにある A は実在しない」と分析できる。

だが、ギーチはさらに、ブレンターノの理論において「実在する」が判断を表現することと言及すること(to talk about)の両方に用いられていることを指摘する。これを踏まえれば、前節の A-判断の分析同様、先の条件文は「A を受け入れ B を棄却するのが正しいような人は実在しない」という文に分析されるだろう。ブレンターノの理論はこうした仕方でより複雑な判断にも適用可能である。

こうした分析は実用的には不必要に複雑だとして退けられるかもしれないが、少なくとも命題的な実体にコミットしないという存在論的意義を持つ。このゆえにブレンターノはまた真理の対応説を認めない。

6 論理学の改革

19世紀後半の論理学はアリストテレス的伝統から脱出したが、これは「心理主義」の終焉と連係していた。ブレンターノはこの流れに逆行して古い論理学を擁護し、論理学の心理学的基礎づけの最後の試みをなしたかに見える。だが、ブレンターノの論理学は伝統的論理学よりも現代の論理学により合致している。伝統的論理学においては、以下が主張されてきた。(A) すべての S は P である、(E) どの S も P でない、(I) ある S は P である、(O) ある S は P でない、として:

  1. A は O と矛盾する。
  2. E は I と矛盾する。
  3. A と E は偽でありうるが、ともに真であることはできない。
  4. I と O は偽でありうるが、ともに真であることはできない。
  5. A は I を含意する。
  6. E は O を含意する。
  7. I は「ある P は S である」に換位される。
  8. E は「どの P も S でない」に換位される。
  9. A は「あらゆる非 P は非 S である」に換位される。(対偶による換位)
  10. O は「ある非 P は非 S である」に換位される。(対偶による換位)

このうちブレンターノは 1 と 2 のみを全面的に認める。S が空なる名辞である場合を考えれば、3-6 は誤りと分かる。7, 8 は正しいが、それは換位のゆえではなく、一つの判断が二つのしかたで表現されているためである。9, 10 は正しいが対偶は必要でない。*1 こうした不一致が生じるのは、伝統的論理学が E と O を否定判断と考えるのに対し、ブレンターノは A と E を否定判断と考えるためである。翻って現代の論理学と比較すれば、1-6 については全く一致しており、7 と 10 についても大きな不一致はない。

ここから分かるのは、ブレンターノの論理学の改革はそれほど保守的なものではない、ということである。それにも関わらずこの改革が穏健なものに見えるとすれば、それは文ではなく項を単位としているからだろう。

7 テストケースとしてのフィクション的言説

ブレンターノの理論は空なる名辞の問題にどのように対処しうるか。A が空なる名辞であるとは、"A-“ が正しい判断であることだ、と説明できる。*2さらに、二重判断の理論は、以下の問題をよく説明する。「すべてのユニコーンは四つ足である」という判断について、「もし何かがユニコーンであれば、それは四つ足である」と分析し真とみなす考え方と、これは空なる名辞への述定であり、それゆえ偽である、という考え方がありうる。ブレンターノ的な見方によれば、後者の立場においては当の判断が「Aが実在し、それは B である」という形の判断について考えられている。だが「A は B である」という単一の判断として見れば、A の実在にコミットしない以上、真と見なすことができる。

Wayne Martin は次のような疑義を表明している。「(あらゆる)ユニコーンは四つ足である」という判断を、ブレンターノは否定的な実在判断と見なしていた。しかしユニコーン非実在である以上、任意の n について「あらゆるユニコーンは n つ足である」が真となってしまわないか。

この疑義も二重判断の理論を用いて解消できる。「あらゆるユニコーンは四つ足である」は、次のように分析できる。

  • 「あるユニコーンは四つ足でない」と正しく主張できる人はいない。

ここに埋め込まれている主張は、次のように解するなら、偽である。

だが、ここに埋め込まれている判断を二重判断とみなす必要はない。それを「あるユニコーンは四つ足でない」という単一の判断だと見なすなら、この判断はやはり偽であるが、それは神話学的に誤っているからだ。

ここで、「あらゆるユニコーンは一つ足である」という判断を考えよう。これは次のような二重判断として捉えられる。

  • 「あるユニコーンは一つ足でない」と正しく主張できる人はいない。

ここで埋め込まれた主張を単一の判断だと見なすなら、それは真である。このとき全体としては偽となり、直観的に正しい結果が得られる。

8 今後の研究の見通し

ブレンターノ哲学は歴史的観点と体系的観点の二通りからさらに研究されるべきだ。歴史的観点からは反「判断の結合理論」の文脈から同時代の哲学者と比較できる。とりわけブレンターノの事物主義の影響はオーストラリアないしルヴフ・ワルシャワ学派に見られる。さらに、現象学の潮流は、表象と判断の関係、判断の極性、および実在判断の役割についてブレンターノの理論の代替案を追求した。

体系的観点からは、ブレンターノの哲学を今日私たちは受け入れるべきか否か、が問題になる。まず、現代の「棄却主義者(rejectivist)」の議論はブレンターノの理論と連続性を持つ(ただし前者は後者と異なり棄却を言語行為のモデルから説明する)。次いで、信念の形成は非命題的な理論な理論によってよりよく説明されるかもしれない。関連して、心的現象の志向的性格と判断の本性の関係についてさらなる探究が必要である。判断と真理の概念の関係、判断の正しさと情緒的態度の正しさの関係、の探究においてもブレンターノの理論は役立ちうる。

感想

虚構的対象への述定に関する第7節の議論、とりわけ Martin への応答の部分に引っかかりを覚えた。誤解しているのでなければ、ここはブレンターノの理論についての従前の説明とくいちがっているように見える。

ブレンターノの二重判断の理論は、次のようなものであった。"In making a double judgement one first accepts the existence of something, and then adds to this first judgement a second one to the effect that the object, whose existence one already has accepted, either has or lacks some property.“(p.7, 強調は引用者による。)

そして「対象の実在がすでに受け入れられている」ことは実在テーゼによって要請されている。さらに、ブレンターノの見方によれば、単なる述定は判断を構成しない。こうした原則に忠実であるかぎり、「あるユニコーンは一つ足でない」を真なる単一の判断と見なす道筋は存在しないように思える。

*1:7-10 については伝統的論理学の知識がないため理解に自信がない。

*2:記事ではここでさらに心的対象と判断の対象の区別について議論しているが、ここでは省略する。