久保元彦「神の現存在の存在論的証明に対するカントの批判について」

  • 久保元彦「神の現存在の存在論的証明に対するカントの批判について」同『カント研究』創文社、1987年、351-420頁。

カントによる存在論的証明批判の固有性はどこにあるのかを問う論文。以下のようなことが主張される。

  1. カントによる批判の眼目は、現存在はレアリテートではない、という点にある。
    • ヘーゲルのカント批判はこのことを取り逃している。
  2. ただし 1 のような批判はそれじたいカントの独創であるとは言えない。
  3. カントの独創は、存在論的証明の批判が、同時にあらゆる思弁神学の批判ともなる、ということを示した点にある。

要約

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存在論的証明は、次のような形式を持つ。

  1. 最もレアールな存在者(ens realissimum)はすべてのレアリテートを持つ。
  2. すべてのレアリテートのうちには「現存在」もふくまれる。
  3. したがって、最もレアールな存在者の非存在はその概念に矛盾し、それゆえ不可能である。

――ゆえに、最もレアールな存在者は存在する。 ただし、ここでレアリテートとは、事物の本質規定を構成する性質、すなわちそれによってのみ事物が Etwas であるところの超越論的肯定(Bejahung)を意味する。

2

ところで、ヘーゲルはカントの存在論的証明批判を次のように解した。すなわち、存在論的証明においては「思惟のなか」の現存在と「思惟のそと」の現存在とが混同されている。

この解釈が正しければ、カントのこの批判は無力である。というのも、デカルトが第五省察において、すでにこの批判に対応しうるような弁明を行っているからだ。すなわち、三角形の本質から「内角の和が二直角に等しい」という性質が切り離せないように、あるいは山の本質から谷が切り離せないように*1、神の現存在はその本質から切り離せないのだ、と。三角形のこの性質に関して、「思惟のなか」の三角形と「思惟のそと」のそれとを区別して考えることは意味をなさない。同様に、事物のいかなるレアリテートについても、そうした二重性は設定できない。

けれども、ヘーゲルの解釈はそもそも誤っている。確かにカントは教授資格論文において一度このかたちの批判を用いたけれども、その後二度と用いなかった。それどころか Reflexion 3706 では明確にこうした方針に反対する。また曰く、現存在がレアリテートであるかぎり、いかなる反駁も無効である。

3

カントの異論の眼目はむしろ、現存在はレアリテートではない、という主張に存する。このテーゼは「唯一可能な証明根拠」において二つの例を用いて説明されるが、いずれもこの主張の理由を十分にあきらかにしない。初めて理由を明示したのが KrV の百ターレルの例である(A599/B627)。その議論の眼目は、現存在がレアリテートであるなら、(可能な百ターレルという)概念を(現実の百ターレルという)対象に適用しえなくなる、という点にある。この例に対するヘーゲルの批判は 2 で指摘されたような誤解に基いている。カントにとって概念と現存在との例外なき区別は論証の結論であり、ヘーゲルが解したようにその前提なのではない。

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だが、現存在はレアリテートではない、という論拠によって存在論的証明を攻撃したのは、カントが初めてではない。すでに「第五論駁」のガッサンディがこの仕事を果たしている。ガッサンディは次のいくつかの方法を挙げるが、その内的連関を明示していない。

  1. 三角形や山の例は本質と本質との結合の例だが、神については本質と現存在の結合の例になっており、したがって構造がことなる。
  2. 現存在はいかなる完全性でもなく、むしろ完全性の現存の根拠である。
  3. デカルトは、神についてのみ、現存する神は現存しない、という命題を想定し、矛盾を導いている。
  4. 現存在を ens perfectissimum の概念にふくめている時点でデカルトの論証は循環している。

内実から考えて、このうち 1 および 3, 4 は 2 に依存している。したがって、ガッサンディの批判のかなめとなるのは、現存在は完全性ではない、という洞察である。それゆえガッサンディは、本質的に、前述したカントの批判をすでに先取りしている。

5

ではカントの批判は単なる車輪の再発明か?そうではない。理想論の構成に目を向けるなら、三種の証明に対する批判が第4節以降において初めてなされていることに気づく。とくに第2, 3節が先行する理由が解明されなければならない。

第2節ではいわば「汎通的規定の原則に基づく神の現存在の証明」とでも呼べるものが扱われる。汎通的規定の原則(der Grundsatz der durchgängigen Bestimmung)とは、現存する一切のものが汎通的に規定されている、という原則である。ところで汎通的規定は、事物と、すべての可能な述語の総括、すなわちレアリテートの総体との超越論的比較においてなされる。「汎通的規定の原則に基づく証明」は、このように事物の汎通的規定が ens realissimum の概念を前提することから、ens realissimum の現存を導く。

この証明への批判は簡単であり、たんに概念と現存在との混同を指摘すればよい。存在論的証明とは異なり、ここには両者の混同を批判の論拠にすることを妨げうるものは何もない。だが、理性がかくも脆いこの証明へと傾いてしまうことは、かえって、この証明がより理性の根本的な課題に駆られたものであることを予感させる。

6

第3節の冒頭で明かされるように、その課題とは、条件付きのものから無条件的なものへの背信において、無条件的なもの、すなわち必然的存在者を見出すことにほかならない。ens necessarium なくしては現存在はその現存の根拠を欠く、とカントは指摘し、これを「無の深淵」と呼ぶ。「汎通的規定の原則に基づく証明」もまた ens necessarium の現存在の証明であったことが明らかとなる。むろん表面的には ens necessarium に対するいかなる論及もない。だが理性はひそかに、その現存在の証明を、「汎通的規定の原則に基づく証明」に託していたのだ。

そして存在論的証明もまた、同じ根源から発しているのである。したがって、存在論的証明にあっても、必然的存在者の汎通的規定が目指されている。言い換えれば、ens realissimum の概念と ens necessarium の概念との結合の妥当性を示すことが目指されている。けれども、その試みは失敗するのだ。

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だから、存在論的証明において証明されるべきことは、正確には ens realissimum の単なる現存在ではなく、その絶対的に必然的な現存在であった、と言える。他方、ガッサンディの批判はあくまで ens perfectissimum の現存在にかかわるもので、ens necessarium にまでは射程が及ばない。実際たとえばメンデルスゾーンは、両者の区別のもとで ens necessarium が現存在すると論じる。他方カントの批判は、そうした―― ens necessarium に関わる――証明の論拠と見なされているものが、すでに存在論的証明にふくまれている、という点を見通していた。

このことを把握するならば、宇宙論的証明にふくまれる論証はすべて存在論的証明にふくまれている、ということが分かる。宇宙論的証明は次の二段階をたどる。

  1. 経験一般から、なにものかの現存在の絶対的必然性を推論する。
  2. ある存在者の絶対的必然性から無制限のレアリテートを推論する。

理性は 1 の推論を避けられず、それゆえ存在論的証明によって 2 の推論を正当化する。カントは 2 を宇宙論的証明の主要な論拠と見なすが、それは ens necessarium と ens realissimum の相互規定性に依存している。

カントはさらに、物理神学的証明も存在論的証明の「序論」としての役割を果たすだけである、と述べる。要するに、カントは存在論的証明の批判を通じて、思弁的神学において与えられる他のさまざまな証明の可能性をも否定した。このことこそ、カントの批判に固有な点なのである。

*1:逆じゃないのか、と思ってしまうけれど、ここの違和感は日本とヨーロッパの地形の違いによるのかもしれない