近代におけるプレソクラティクスの形成 Laks, The Concept of Presocratic Philosophy #2

  • André Laks (2018) The Concept of Presocratic Philosophy: Its Origin, Development, and Significance. trans. by Glenn W. Most. Princeton-Oxford: Princeton University Press. 19-34.

第2章は近代的 Presocratics 概念の源流として Zeller / Diels の歴史学的作業とニーチェ思想を踏査する。

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古代における「ソクラテス以前」概念 Laks, The Concept of Presocratic Philosophy #1

  • André Laks (2018) The Concept of Presocratic Philosophy: Its Origin, Development, and Significance. trans. by Glenn W. Most. Princeton-Oxford: Princeton University Press. 1-18.

André Laks (2006) Introduction à la "philosophie présocratique" の英訳。ペーパーバック版は2019年刊行。

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『自然学』A7 #1 生成の基礎に置かれるもの

Phys. A7 前半部 (189b30-191a17). Symposium Aristotelicum の区分に従い7章の前半・後半を分ける。Symp. Arist. の前半部の担当者は B. Morison で,Quarantotto 本では章全体を D. Charles が担当している。特に Morison の議論は啓発的で,また第一印象としては大筋で説得力がある。

便宜上さらに範囲を二分するが,とくに意味のある区分けではない。

1. 予備的な区分

[189b30] それゆえ,生成全体について検討しつつ,次のように我々は述べる。というのも,まずは共通のものどもを次のように述べてから,各々について固有のことどもを観照することが,自然に即しているから。

[189b32] すなわち,あるものから別のものが,また一方のものから他方のものが,(単純なものどもについて言うのであれ,複合的なものどもについて言うのであれ,)生成すると我々は主張する。私がこう言うのは,次のようなことである。すなわち,人間が教養あるものになることがありえ,教養なきものが教養あるものになることも,教養のない人間が教養ある人間になることもありうるからである。さて,「成るものが単純である」と私が言うのは,人間や,教養のないもののことであり,「〈それに成るところのそれ〉が単純である」と言うのは,教養あるもののことである。他方で「〈それに成るところのそれ〉や,成るものが複合的なものである」と言うのは,教養のない人間が教養ある人間になると我々が述べるようなときである。

[190a5] これらのうちあるものは「これが成る」と言われるのみならず「これから」とも言われる。例えば教養なきものから教養あるものに成るように。他方,他のものは,全ての場合について〔「これから成る」と〕言われはしない。というのも,人間から教養あるものが生成するわけではなく,人間が教養あるものに成るからである。成るものどものうち,単純なものどもが成ると我々が言うときには,あるものは留まり,別のものは留まらない。というのも,人間は教養あるものに成りながら人間に留まり人間である一方,教養なきものや無教養なものは,単純な仕方でも,また複合されたとしても,留まらないから。

訳注

γίγνομαι: 生成する,成る。ὃ γίγνεται: 〈それに成るところのそれ〉。μουσικός/ἄμουσος: 教養ある/無教養な。τὸ μουσικόν: 教養あるもの (ただし cf. Morison, 236ff.; 以下で詳述。)

生硬な訳だがある程度は仕方ない。LSJ を見る限り ἄμουσος の用法としては 'unmusical' より 'without taste' の方が普通のようなので,μουσικός 系列の語はさしあたりそのように訳しておく。

要約

  • 生成に関して,まずそれら全てに共通する事柄を確認する。
  • 生成には二種類ある:「あるものから別のものが」(ἄνθρωπος → μουσικός),「異なるものから異なるものが」(τὸ μὴ μουσικόν → μουσικόν (単純),μὴ μουσικὸς ἄνθρωπος → ἄνθρωπος μουσικός (複合))
  • 生成するものには「これから生成する」と表現できるもの (μουσικός) とできないもの (ἄνθρωπος) とがある。
  • 単純なものが何かに生成するとき,あるものは留まり (ἄνθρωπος),別のものは留まらない (μουσικός)。

内容注

第一段落

  • Morison: ここで κατὰ φύσιν (189b31) は「道筋は,我々によりよく認識され,より明瞭であることどもから,本性上より明瞭であり,よりよく認識されることどもへと,本性上ある (πέφυκε)」 (A1, 184a16) に対応する。ここでは (i) 変化の共通要素がまず取り出され,(ii) 次いで変化の諸種の違いが原理で裏付けられる。ただし A7 の探究は A1 で言及される探究そのものではない: 前者は変化の原理を,後者は変化する自然的実体そのものの原理を,探究する。〔「固有のことども」が何を指すのか分明でないようにも思うが,保留にしておく。〕
  • Morison: ἄλλο と ἕτερον の違いは何か。(epexegetic καί ではありえない。) Ross は Metaph. N1 1087b29 を根拠に ἄλλο は数的な違い,ἕτερον は質の違いとするが,N1 がこれを支持するかは疑わしい。むしろ,ἕτερον は「対の一方」を指し,ἄλλο は「何か別のもの」を指す,という解釈もありうる。こちらの区別の方が γίγνεται ἐκ の諸事例にうまく合致する。

第二段落

  • Morrison: 「本章は言語使用に基づいて世界のあり方を説明している」という解釈 (e.g. Bostock 2006, 4) は取れない ('γάρ' (189b35))。むしろ形而上学的区別の説明的価値を示すために言語データが参照されている。〔Charles が 190a13f. について「言語データに主張を基づける」のではなく「言語データから視点を得る」のだと解しているのも本質的に同じ指摘だろう。いずれも正鵠を射ている。〕
  • Morison は斬新にも,τὸ μουσικόν は (一般的解釈が支持する)「教養あるもの」ではなく,むしろ「教養あるという性質」だと論じる。(1) τὸ μουσικόν は (単に言語的にではなく) 形而上学的に単純でなければならない。(2) 人間と τὸ μουσικόν が「数的に一つ」だという反論が予想できる。だがアリストテレスはそう述べていない。(3) A7 の諸原理の一つ,στέρησις は τὸ ἄμουσον に対応する。すると τὸ ἄμουσον は欠如そのものを指す必要がある。〔一種逆算的な解釈。しかし下記の理由からあまり同意できない。〕
    • このとき変化に関わる単純物は: (i) SGR (Simple Gignomenon which Remains), (ii) SG~R (Simple Gignomenon which does not Remain); (iii) SHG (Simple Ho Gignetai). 複合物は SGR+SG~R, SGR+SHG と表せる。
    • Morrison 解釈の問題は「〈教養のなさ〉(SG~R) が変化する」とアリストテレスが述べていることになること。だが Morrison 曰くこれは可能である。〔論証は 238f. しかし法外な帰結だという印象は拭えない。さらに言えば SGR γίγνεται SHG ケースにも対応できないように思う。〕

2. 生成一般の分析

[190a13] これらがこのように区別されたとき,我々が語るような仕方で注意して見るならば,生成するもの全てから,次のことを把握できる。すなわち,つねに何らかのもの,すなわち生成するものが基礎に置かれていなければならないということ,および,このものは数の点では一つであるとしても,少なくとも形相の点では一つではないということである。というのも,「形相の点で」と「説明規定の点で」は同一である,と我々は言うから。というのも,「人間の点で」と「無教養なものの点で」は同じではないから。そしてあるものは留まるが,別のものは留まらない。対立しないものは留まるが (というのも,人間は留まるから),教養なきものや無教養なものは留まらないし,両者から複合したものも留まらない。例えば無教養な人間のように。

[190a21] 「〈あるこれ〉が何かになる」ではなく,何かから何かが生成するということは,留まらないものについて一層よく語られる。例えば無教養なものから教養あるものが生成するが,人間からは〔教養あるものは生成し〕ないように。しかし実際のところ,留まるものどもについても時には同様に語られる。というのも,銅から鋳像が作られると我々は言うのであって,銅が鋳像になると言うのではないから。しかしながら,対立し留まらないものから〔生成するものは〕両様に語られるーー「これからこれが生成する」とも「これがこれになる」とも。というのも,無教養なものから教養あるものになるし,無教養な者が教養あるものにもなるから。それゆえに,複合的なものについても同様である。というのも,無教養な人間から教養あるものになると言われるし,無教養な人間が教養あるものになるとも言われるから。

[190a31] 生成することは複数の仕方で語られるのであり,あるものどもは生成するのでなく,〈あるこれ〉が〔それに〕成ると語られる一方,諸実体のみが端的に生成すると言われるのであって,他のものどもに関しては何らかの生成するものが基礎に置かれることが必然であることは明らかである。(というのも,実体のみがいかなる他の基礎に置かれるものについても語られないということのゆえに,〈どれほど〉〈どのように〉〈他のものに対して〉〈いつ〉〈どこ〉は何かが基礎に置かれるときに語られるから。)

[190b1] 諸実体すなわち[他の]端的にある限りのものどもが何らかの基礎に置かれるものから生成することは,考察すれば明らかになるだろう。というのもつねに,基礎に置かれているものは,生成するものがそこから〔生成する〕ところのものだから。例えば植物や動物が種子から生成するように。端的に生成するものどもは,あるものは形の変化によって (例えば鋳像のように) ,あるものは増加によって (例えば増えるもののように),あるものは除去によって (例えば石からヘルメース像が生成するように),あるものは合成によって (例えば家のように),あるものは性質変化によって (例えば質料に即して変わるもののように),生成する。このように生成する全てのものどもが基礎に置かれるものどもから生成することは明らかである。

[190b10] したがって,以上述べられたことから,全ての生成するものがつねに複合的であることは明らかである。すなわち一方で生成するあるものがあり,他方で生成するものがそれになるところの何かがあり,またこのことは二重である。というのも,基礎に置かれるものであるか,対立するものであるかのいずれかであるから。「対立する」と私が言うのは,無教養なもののことであり,「基礎に置かれる」と言うのは人間のことであり,無形性・不定形性・配置を欠くことを「対立するもの」と言い,青銅や石や金を「基礎に置かれるもの」と言う。

訳注

  • τι ἀεὶ ὑποκεῖσθαι τὸ γιγνόμενον (190a14f.) : τι を主語と解する。('something underlying' (Morison): だが τι ... τὸ γιγνόμενον の語順で一まとまりにはなりにくいように思う。単なる意訳かもしれないけれど。) だが τι を ὑποκεῖσθαι の目的語としても指す内容は大差ない (Charles, 179n1):「成るものは何かの基礎に置かれる」。もっとも後者の場合「何か」が何を指すのか不明。また文法的に可能かもよく分からない: LSJ II.8 のプラトンの諸例 (Prt. 349b, Cra. 422d, R. 581c) はいずれも与格を取る。Bonitz 797ff., esp. 708 もざっと見た限りではこの意味での対格用法は載せていない。
  • καὶ ποτὲ (190a35): Ross のテクストは削除。Morison: 253f. は直前の 'καὶ πρὸς ἕτερον' も同様に問題含みだと指摘しつつ,一応どちらも許容可能だと結論する。
  • ὃ ὑπόκειται (190b3) = τὸ ὑποκείμενον か。

要約

  • 生成においては,何らかの生成するものが基礎に置かれており,かつ,それは数的に一つであっても形相の点では一つではない。
  • 「A から B が生成する」は,A, B が留まるものの場合より,留まらないものの場合 (およびーー同じくそのままの形では残らないーー複合物の場合) に一層よく語られる。
  • 生成には,(1) A が端的に生成する場合と (2) 個物が A に生成する場合があり,実体の生成のみが (1) に属する。
    • 実体以外のものの変化は,何らか生成するものが基礎に置かれる。
    • 端的な生成の諸種も,すべて基礎に置かれるものからの生成である。
  • 小括: 生成の始点・生成先の各々について,基礎に置かれるもの・対立するものの二重である。

内容注

第四段落

  • Charles は,ὑπομένειν 概念をもとに ὑποκεῖσθαι 概念が導入されているのであり,「ὑποκεῖσθαι するものは ὑπομένειν する」という独立のテーゼは立てられていない,と主張する。Metaph. Z3 におけるような ὑποκείμενον のより豊かな概念は前提されていない。なお Morison 245 は,ここでは論理的な ὑποκείμενον 概念は無関係だと指摘する。〔第六段落も参照。〕
  • Charles 曰く,ここでは τὸ ὑποκείμενον なるものが実際に「ある」ことが示されている。TSV でいう τί σημαίνει; に続く第二段階であり,第三段階 (質料や可能態の観点からなされる「何であるか」の探究) は今後の課題である。
  • Morison は「数の点で一つ,形相の点で二つ」に一般的でない解釈を加える。ふつうは (i)「人間」と「無教養なもの」が数において一つとし,(ii) 無教養なものを (前述の通り) 無教養な「基礎に置かれるもの」と捉える: つまり (ii) を前提して (i) を主張する。だが (i') ここでは「数において一つ」は一項述語で「生成するもの」に述定されている。(ii')「形相において二つ」とは二つの形而上学的な単純物の合体したものであることを指している。「線分の中点が始点でも終点でもあるが,数において一つ」(Phys. 263b13) という時とは場合が異なる; 人間と無教養なものが偶々合致するということが言われているのではない。〔点の例と意味合いが違うというのはその通りだけれども,これが正統解釈の論駁になっているかは疑わしいと思う。〕
  • Morison: τὸ ὑποκείμενον はここでは SGR+SG~R. ただし SGR のみを指すように思われる箇所もある (e.g. 190a15)。多義的か,多義的とすれば何故か,が問題になる。いずれにせよ,基礎に置かれるものが (i) 存在し,(ii) 形相の点で二つであることがここで主張される。論証は以下でなされる。

第五段落

  • Morison: 基礎に置かれるものが (ii)「形相の点で」二つであることが,ここで正当化される。すなわち SGR と SG~R との区別の説明能力がここで示される。
  • Morison:「銅が鋳像になると言うのではない」は「そう言えない」という意味ではない (cf. Code 1976)。ひとは時おり (ἐνίοτε) 'γίγνεται ἐκ' 表式を採ることがあり,その場合にはそう言わない,というだけである。
  • Charles: 182n4 は 'τὸ δ' ἔκ τινος γίγνεσθαί τι, καὶ μὴ τόδε γίγνεσθαί τι, μᾶλλον μὲν λέγεται ἐπὶ τῶν μὴ ὑπομενόντων' (190a22f.) の比較対象を ἐπὶ τῶν ὑπομενόντων ではなく τόδε γίγνεσθαί τι と解する。〔採らない。少なくとも構文上 οὐ μὴν ἀλλὰ καὶ ἐπὶ τῶν ὑπομενόντων ἐνίοτε λέγεται ὡσαύτως (a24) との対比は明らかで,Charles 解釈は特に譲歩・逆接 (cf. Denniston, 28ff.) を説明できない。〕
    • この解釈の帰結として,Charles は,言語現象は本箇所が示す通り複雑であるにも拘らず,結局のところ「X が Y になる」('locution [A]') が「X から Y になる」('locution [B]') より良い存在論的モデルを提供している,と述べる。〔が,これも少なくともこの段落で述べられていることの説明としては怪しいと思う。〕

第六段落

  • Morison: 非実体的変化に関して (i) 生成の基礎に置かれるものが存在することの論証。ただし論理的な ὑποκείμενον から変化の ὑποκείμενον への飛躍がある。行間を埋めると: 変化は反対のものへの変化であり,結果の (例えば) 質の述定において基礎に置かれるものは,元の欠如の基礎に置かれるものでもあるはずである。したがって,変化の基礎に置かれるものはこの基礎に置かれるものと欠如との結合である。
    • Morison は,変化の ὑποκείμενον は述定の ὑποκείμενον とは異なる,という前提で議論している。前者を単に〈変化の述定の ὑποκείμενον〉と解さない理由は ὑποκείμενον の複合性に存する: 単なる「人間」は「形相の点で二つある」とは言えない。〔この注釈を読む前は共有していなかった前提だけれど,これで一応納得した。〕

第七段落

  • Morison: 実体的変化への議論の拡張は Phys. I 全体にとって重要。
  • 'ἀεὶ γὰρ ἔστι ὃ ὑπόκειται, ἐξ οὗ τὸ γιγνόμενον, οἷον ...' (190b3-5): ὃ ὑπόκειται を生成の原点と解するか,生成過程中で留まるものと解するか,の二通り考えられる。Charles は以下の諸点から後者の解釈を支持する:
    1. 第二の解釈はそれまでの議論と合致する。ここで付け加わる議論は,τὸ ὑποκείμενον が (人間のような) 特定の実体とは限らず,むしろ〈種→苗木→……〉のような変化の過程にあって同一のもの全般を指すというものである。
    2. 第二の解釈を採らないとアリストテレスは〈locution [A] が明らかにする存在論的モデルの正当化〉という試みに失敗することになる。
    3. 第一の解釈を取ると直後の議論 (190a5-8) は全くの自明事と化してしまう。
    4. 第二の解釈を採らないと「全ての生成するものは複合的」(190b11-12) という根拠にならなくなる。
  • 他方,第二の解釈は二つの問題を招来する。(1) 全ての場合に τὸ ὑποκείμενον があると言える根拠が不明である。(2) 例示が理解困難である ('telegrammatic')。例えば植物の事例において留まるものとは結局何なのか。
    • 答え: 留まるものとは例えば 'that which is potentially a house' (1049a8-11) である。「基礎に置かれるもの」という考えの展開・擁護は GC I で最も巧みになされている。Phys. A7 はまだ「基礎に置かれるもの」の本性に立ち入っておらず,ゆえに術語としての 'ὕλη' の使用も見られない。
  • 他方 Morison によれば,種子の例は SGR+SG~R の例として適切: 形相の欠如態は 'the sort of thing which is capable of receiving that form' のうちにある (Clarke 2015: 142)。ὑποκείμενον を質料として解釈すると,この例は理解不能になる。〔要するに Charles と真逆の解釈。ὑποκείμενον の複合性を受け入れるなら,こちらも受け入れることになる。〕

『自然学』A6 原理は三つ必要であるかもしれない

Phys. A6 (189a11-b29). 以下の三節に分ける。

  1. 原理は一つでも無限でもない。
  2. 原理は三つでありうる。
  3. 原理は四つ以上ではない。
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『自然学』 A5 #3 原理の性質に関する先行学説の整理

Phys. 188b26-189a10.

[188b26] さて,先ほど述べたとおり,こうしたことに関するところまでは,他の人々の大多数も,ほとんど同じ道を辿っていた。というのも,全員が諸要素および彼らの所謂原理を,議論なしに立てているとはいえ,あたかも真理そのものに強制されているかのように,反対のものどもであると同様に語っているから。だが他方で,ある人々はより先なるものどもを把握し,別の人々はより後なるものどもを把握しているという点,すなわち,ある人々は言語に即してよりよく認識されるものを把握し,別の人々は感覚に即してよりよく認識されるものを把握するという点においては,彼らは互いに異なっている。(というのは,ある人々は熱と冷を,別の人々は湿と乾を,また別の人々は奇と偶を,あるいは憎悪と友愛を生成の原因として立てているから。これらは上述の仕方で互いに異なっている。) すると,ある仕方では同じことを述べており,また互いに異なることを述べていることになる。異なるというのは多くの人々にそう思われる通りにであり,同じであるのは類比の限りでそうである。というのも同じ双欄表から把握するからである。というのも,反対であるものどものうち,あるものどもは他のものを含み,別のものどもは他のものに含まれるからである。

[189a2] 事実この仕方で,彼らは同様に,かつ別様に語るのであり,また劣った仕方でも優れた仕方でも語るのであって,先述の通り,ある人々は言語に即してよりよく知られるものを語り,別の人々は感覚に即してよりよく知られるものを語る。(というのも,普遍は言語に即して認識され,個別的なものは感覚に即して認識されるから。というのも,言語は普遍に属し,感覚は部分的なものに属するから。) 例えば,大と小は言語に即して認識され,稀薄と濃密は感覚に即して認識される。かくして,原理が反対のものでなければならないことは,明らかである。

要約

  • 先行学説は「原理は反対のものである」という事実を,議論抜きにせよ言い当てている。包括性に違いはあれ,どれも肯定/否定の対から把握している。
  • 他方,先行学説は,原理を言語的に認識されるものと捉えるか,感覚的に認識されるものと捉えるかという点で異なる。

内容注

  • 言語に即して/感覚に即して原理を把握する: Judson, p.152 曰く Metaph. Λ1 1069a25-30 が並行箇所。ただし「感覚」側にエンペドクレスを置く点で類比が崩れる。Judson は,友愛と憎悪はものの構成要素でも変化の終端でもないという点で,これは驚くべき言及だと指摘する。('αἰτίας τῆς γενέσεως' という文言からして,ここで言う両者は宇宙の究極的な二状態ではなく,一種の始動因 (cf. Metaph. A4) であるはずである。) ーー 結局ここはアリストテレス自身の理路とは独立に読むべきということではないかと思う。
    • このペアを区別する基準が正確に言って何なのか,正直よくわからない。
  • 湿と乾 (ὑγρὸν καὶ ξηρόν): Ross, p.489 曰く 'Porphyry referred this, probably rightly, to Xenophanes (P.125.29). Cf. fr.29'.
  • 類比の限りで,同じ双欄表から: 一方が肯定的,他方は否定的という意味において (Ross, p.489)。

アリストテレスと現代本質主義 Charles, Aristotle on Meaning and Essence #1

アリストテレスと現代本質主義 Charles, Aristotle on Meaning and Essence #1

  • David Charles (2000) Arisotle on Meaning and Essence, Oxford University Press, pp.4-19.

読む義務があるのに先延ばしにしていた本。第1章は現代の議論の整理だが,不慣れな話題でどれほどよい整理か分からない。予習で SEP の "Essential vs. Accidental Properties" を読んでみたが,あまり見通しが良くなる感じはしなかった。未読だが "Natural Kinds" の項目のほうが関連度が高いと思う。

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『自然学』A5 #2 変化は反対のものどもの間で起きる

Phys. 188a30-188b26. 再開。ここは Judson がいろいろと難しいことを書いていて,全部は理解できていない。ざっくり分かったことにして読み進める。

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