『自然学』 A5 #3 原理の性質に関する先行学説の整理

Phys. 188b26-189a10.

[188b26] さて,先ほど述べたとおり,こうしたことに関するところまでは,他の人々の大多数も,ほとんど同じ道を辿っていた。というのも,全員が諸要素および彼らの所謂原理を,議論なしに立てているとはいえ,あたかも真理そのものに強制されているかのように,反対のものどもであると同様に語っているから。だが他方で,ある人々はより先なるものどもを把握し,別の人々はより後なるものどもを把握しているという点,すなわち,ある人々は言語に即してよりよく認識されるものを把握し,別の人々は感覚に即してよりよく認識されるものを把握するという点においては,彼らは互いに異なっている。(というのは,ある人々は熱と冷を,別の人々は湿と乾を,また別の人々は奇と偶を,あるいは憎悪と友愛を生成の原因として立てているから。これらは上述の仕方で互いに異なっている。) すると,ある仕方では同じことを述べており,また互いに異なることを述べていることになる。異なるというのは多くの人々にそう思われる通りにであり,同じであるのは類比の限りでそうである。というのも同じ双欄表から把握するからである。というのも,反対であるものどものうち,あるものどもは他のものを含み,別のものどもは他のものに含まれるからである。

[189a2] 事実この仕方で,彼らは同様に,かつ別様に語るのであり,また劣った仕方でも優れた仕方でも語るのであって,先述の通り,ある人々は言語に即してよりよく知られるものを語り,別の人々は感覚に即してよりよく知られるものを語る。(というのも,普遍は言語に即して認識され,個別的なものは感覚に即して認識されるから。というのも,言語は普遍に属し,感覚は部分的なものに属するから。) 例えば,大と小は言語に即して認識され,稀薄と濃密は感覚に即して認識される。かくして,原理が反対のものでなければならないことは,明らかである。

要約

  • 先行学説は「原理は反対のものである」という事実を,議論抜きにせよ言い当てている。包括性に違いはあれ,どれも肯定/否定の対から把握している。
  • 他方,先行学説は,原理を言語的に認識されるものと捉えるか,感覚的に認識されるものと捉えるかという点で異なる。

内容注

  • 言語に即して/感覚に即して原理を把握する: Judson, p.152 曰く Metaph. Λ1 1069a25-30 が並行箇所。ただし「感覚」側にエンペドクレスを置く点で類比が崩れる。Judson は,友愛と憎悪はものの構成要素でも変化の終端でもないという点で,これは驚くべき言及だと指摘する。('αἰτίας τῆς γενέσεως' という文言からして,ここで言う両者は宇宙の究極的な二状態ではなく,一種の始動因 (cf. Metaph. A4) であるはずである。) ーー 結局ここはアリストテレス自身の理路とは独立に読むべきということではないかと思う。
    • このペアを区別する基準が正確に言って何なのか,正直よくわからない。
  • 湿と乾 (ὑγρὸν καὶ ξηρόν): Ross, p.489 曰く 'Porphyry referred this, probably rightly, to Xenophanes (P.125.29). Cf. fr.29'.
  • 類比の限りで,同じ双欄表から: 一方が肯定的,他方は否定的という意味において (Ross, p.489)。

アリストテレスと現代本質主義 Charles, Aristotle on Meaning and Essence #1

アリストテレスと現代本質主義 Charles, Aristotle on Meaning and Essence #1

  • David Charles (2000) Arisotle on Meaning and Essence, Oxford University Press, pp.4-19.

読む義務があるのに先延ばしにしていた本。第1章は現代の議論の整理だが,不慣れな話題でどれほどよい整理か分からない。予習で SEP の "Essential vs. Accidental Properties" を読んでみたが,あまり見通しが良くなる感じはしなかった。未読だが "Natural Kinds" の項目のほうが関連度が高いと思う。

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『自然学』A5 #2 変化は反対のものどもの間で起きる

Phys. 188a30-188b26. 再開。ここは Judson がいろいろと難しいことを書いていて,全部は理解できていない。ざっくり分かったことにして読み進める。

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ヴォルテール『寛容論』

1762年のトゥールーズで,ある新教徒が子殺しの冤罪で処刑され,残る一家も離散の憂き目に遭った。被害者の姓を取って「カラス事件」と呼ばれるこの迫害に対して,ヴォルテールは名誉回復の運動を起こすとともに,宗教的信条の相違にもとづく迫害一般を糾弾する文書を著す。本書 Traité sur la tolérance がそれである。(史実に関しては訳者解説に詳しい。) 冒頭三章はカラス事件,およびその背景をなす新教徒迫害の事実叙述に充てられる。第4-6章は寛容に関する倫理的考察に充てられ,第7-14章は「古代史上,異教徒による宗教的不寛容と言うべきものはなかった,むしろコンスタンティヌス帝期以降のキリスト教徒こそ迫害者であった」と論じる。第15章以降は不寛容を糾弾あるいは嘲弄し寛容を称える様々な断簡の寄せ集めだが大変な筆の冴えを見せている。たとえば第17章はイエズス会内部で新教徒絶滅の陰謀を企てる殆どサド風の書簡を暴露する体で書かれたもので,読者に強烈な印象を残す。

表向き匿名の神父の著述という体裁で,カトリック教徒に宛てて書かれており,その枠内でぎりぎり可能な宗教批判を行っている。不寛容を旧套のキリスト教の特徴とし (他方で聖書はこれを正当化しないと言い添えるが),ヴォルテールの生きる「理性的な時代」と対置する。他方またヨーロッパの他地域・アジア・アメリカの寛容と対比したフランスの後進性をも強調する。このあたりは我々の有する社会批判の修辞との同型性を見て取れると思う。

また個人的に興味深く思うのはギリシアの哲学者の扱いで,第一に「アリストテレスの諸説」は魔法使いの弾圧やいなごへの破門といった旧習と一緒くたにされている (48-9頁)。ただこれはむしろスコラ批判の潮流に棹さすものだろう。第二にソクラテス裁判を評して「五〇〇人からなる法廷に二二〇人の哲学者がいたわけである。それだけでもたいしたもので,よそであればそんなに多くの哲学者にお目にかかれるか疑わしい」と書いている (55頁)。おもしろい表現だが,あるいは「哲学者」に独特の含みがあるか。

盛山ほか『社会学入門』

社会学の教科書。良書だと思う。社会の諸側面を切り出す形でトピック別に章立てされており,「〇〇 (の) 社会学」についての各々の専門家による要を得た記述を読むことができる。

プリンチペ『科学革命』

  • Lawrence M. Principe『科学革命』菅谷暁・山田俊弘訳,2014年。

VSI シリーズ The Scientific Revolution (2011) の訳書。16-7世紀科学がそれ以前の諸学をどう継承し,何を新たに生み出したか,を簡明に解説している。第1章「新しい世界と古い世界」では前史・背景としてのルネサンス宗教改革を論じ,第2章「結ばれた世界」は初期近代の基本的世界観としてのいわゆる自然魔術を扱う。第3章「月より上の世界」,第4章「月より下の世界」,第5章「ミクロコスモスと生き物の世界」は各々章題の通り当時の科学の内実を解説する。第6章「科学の世界を組み立てる」は再び背景に眼を転じ,社会制度としての科学研究の成立過程を明らかにする。